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2009年1月 4日 (日)

江藤新平と甲浦

Nwes & Letters/148

  明治七年佐賀の乱で破れ、敗走して上京中の江藤新平は、同年3月29日、土佐甲浦にて土佐藩の捕吏によって捕まった。高知まで籠でかん送され軍艦で佐賀に送られて、きょう首(さらし首)にされて刑死した。

佐賀県の人にとっては甲浦は因縁のある地であり、維新の元勲江藤新平の怨念のこもった土地と言うことであろう。2週間後の4月13日に死刑が執行されているから、新平にとっても甲浦の最後の場面は忘れることは出来ないだろう。

  江藤新平一行が敗走したルートは佐賀ー鹿児島ー宇和島ー高知ー甲浦であるが、高知に入ったときから既に包囲網は布かれていて、野根か甲浦で逮捕の筋書きは出来ていたようだ。何も東洋町の住民が積極的にこの逮捕劇に活躍したわけではないが、この地で悲劇の結末をつけたのはやはり後味は悪い。最後の望みである上京のためにせめて大阪方面に船で逃がせなかったか、の思いが残る。

  物の本によると、江藤新平は貧しい下級武士の生まれで刻苦勉励して人となり、佐賀藩では早くから 勤王思想を抱き、脱藩して京都に上り、諸藩の勤王の志士や公卿らと親交を結ぶなど、先覚者として活動した。

佐賀藩は名君鍋島かんそうによって、相当高度な軍事力(アームストロング砲などを持っていた)を備えていたが、倒幕の内戦では出遅れていた。江藤の先陣的活動によって佐賀藩(肥前)は辛うじて薩長土肥の最後尾に引っかかったのであった。幕府が倒壊してしばらくのいわゆる朝幕時代(天皇を頂く薩長土肥権力と徳川幕藩体制の二重権力)に江藤は朝廷にあって極めて重要な仕事をしてきている。

とりわけ、岩倉や木戸、大久保らが欧米視察に出ていた数年間は留守を任されていたが、明治五年頃実質的に西郷ー江藤の政権を樹立していたと言うべきで、この間を頂点とする江藤新平のめざましい開明的施策は日本を近代的国家にする上において大きな功績を残したと言うべきであろう。

明治六年の政変(いわゆる征韓論争)から明治7年の佐賀の乱までは、ビスマルク的天皇制絶対主義を標榜する大久保利通と民権的近代政治を進める江藤新平との闘争であり、政略にたけた大久保の完勝に終わったものである。

  佐賀の乱は、江藤新平の失敗であったことは明らかだ。西南の役も西郷の失敗だった。大久保の巧妙な挑発にのせられたのであった。
江藤や西郷は決して保守反動勢力ではなかったが、大久保に対抗するのに、保守反動の旧武士団を率いたことが最大の敗因だった。
確かに倒幕戦争・明治維新においては旧武士団とりわけ西南雄藩の武士集団がその戦闘の中核を担った。全国各地に農民や都市貧民の騒動は激しく起こっていたが、それらは封建体制打倒の背景にはなったが主導部隊ではなかった。明治維新はブルジョワ革命ではあるが、根底的なそれではない。

幼弱なブルジョワジーの部隊の代わりに下級武士や豪農クラスが登場した。これらの階層にはフランス流の共和政治の思想から、極反動的な国学系統まで含んでいた。日本の近代化はこれらの混合勢力によって推進された。革新的な江藤新平は絶対主義者大久保と対立したが、これに動員したのは旧武士団であり、大方が反動勢力であった。

 江藤は自分らが作った近代的な軍事力や政治体制に圧倒された。かつて倒幕の際には、最大限有効であった旧武士団も今となっては足かせにすぎない。それを解体する方がより近代的で合理的であっるものを、これを利用しようとしたのであった。
江藤が寄りかかることが出来るものが他に何もなかった、時代に相応しい新しい勢力を構築することが出来なかったのだから仕方がない。

 東洋町でもそうだ。核反対運動においては、誰も彼も味方にしなければならなかった。

 あれやこれやと人を評価したり、好き嫌いを言っている場合ではなかった。
その運動が勝利し新しい権力が打ち立てられたとき、反対運動の中にいたいくつかの有象無象がわらわらと権力にとりついてきた。わしらの言うことを聞け、・・・をしちゃれ、・・・を認めろ、・・・をどうして切ったんや、とうるさい限りだった。

 特定の利権グループの言いなりになっては新町政は元の木阿弥である。断固としてこれらを遮断し、貧しい町民生活を照準にあてた公正な町政を進めなければならない。
 かつてある時まで自分をもり立て一定の力になったものでも、新しい段階においては、その力をそのまま利用していては、前に進むことが出来ない。

 その者達にも時代に相応する変革を求め、そうしないなら捨て去らねばならない。江藤は、政敵を倒し近代化を推し進めるために、佐賀の反動勢力を利用してしまった。
それ自体は革命的でなくとも時代の流れの中で、革命勢力として役に立つものもある。

 ヘーゲルのいう「理性の狡知」という働きだ。

 しかし、それらはその時代が過ぎれば純粋に反動性をあらわにして、それを利用するものを滅ぼす。

 東洋町甲浦。江藤新平逮捕より126年の星霜が移った。
我々は、江藤新平の残した悲劇の轍を再び践むことがあってはならない。鎮魂。

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