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2008年7月23日 (水)

県教委の新教育改革

News & letters 111/

橋本県政時代には土佐の「教育改革」とかで鳴り物入りで改革をやっていた。橋本氏が去って1年もたたないが、県民にとってその中身が何であったのか記憶すらない。思い出せない。高知県の教育水準はむしろ更に落ち込んだようだ。
今、尾崎新知事の基礎学力向上の教育政策があわただしく始まった。
私のところにも「学力向上・いじめ問題対策計画」というパンフレットが配られてきた。
県下の公教育の実態の把握はかなり進んでいるようだ。対策も「単元テスト」の実施など具体的な提案がなされている。
しかし、土佐の教育状況はもっと構造的な解明が必要である。対策も従来の指導やテストの強化では劇的な変化は望めない。
私は以前から主張していたことをこの機会にもう一度言わしてもらいたい。これは私の実践に基づくものである。

第一に、私高公低という高校格差を解体することで  
     ある。一部の私立高校に優秀な生徒を集めようとする傾向、集まろうとする保護者の偏向である。しかし、私高公低というのは実際には私低公低の結果を生んでいる。国公立大学、有名私立大学への進学状況を他府県と比べてみれば一目瞭然である。公立高校で大学進学の実績を上げなければ、優秀な人材は私立高校に流れる。だが、その私立高校では多くの生徒が落ちこぼれてしまう。
ごく一部の生徒だけが所期の目的を達成するが、公立高校に進学しておれば相当な成果が上がったと思われる大勢の生徒が期待に反した成績で終わり、平凡な進学先で涙をのむのである。
公立高校に優秀な人材を集中させること、優秀な人材がクラスに居れば、そのクラス、その学校全体が活性化し、レベルが上がる。先生も一生懸命勉強しなければならなくなる。公高私高という方向に舵を切り替えなければならない。

第二に、公立学校での授業方法の改革が全くなさ
     れていない、という点だ。
従来のやり方ではだめだ。先生が教科書など教材を読み解く、生徒がそれをじっと聞いて、整理され板書されたものをノートに写すという授業形式では、学力も思考力も上がらないし、時間がもったいない。一方的な授業をして、それを家で復習してこいという日本流の授業を続けていては学力などつきようがない。

私のやり方はこうだ。
学力をつけるには、例えば数学では、教材を自分の力で読み解き、自分流に整理し、例題の解法に習熟して、問題を自分で解く・・という思考作業を積み重ねるしかない。先生はそれを手助けする、点検したり間違いを指摘したり、行き詰まった場合に改題し、答えの出し方を実地にやって見せてやる・・・そして、生徒は自らの力で教科書一冊を仕上げたと思わせる・・という活動に徹しなければならない。そういうやり方にすれば、進むものはどんどん進み小学生でも中学生の教科書、高校生の教科書を仕上げていき出す。勉強がおもしろくて止められない、ということになってくるだろう。私は長年学習塾をやってきたがほとんど授業はやらなかった。授業をやる時間がもったいないからだ。生徒が自ら教科書を読み、自ら考え、自ら問題を解くという時間が大事だからだ。
生徒は全員教科書を数回繰り返し学習させ全ての問題を自ら解かせ、そのノートを毎日のように先生が点検し生徒に是正させた。教科書が終われば公立高校入試程度の問題集を与えそれを繰り返し解かせ、良くできたらさらに私立難関校の問題集をやらせるか、または、公立高校進学者には高校の教科書を与えてそれを自ら学習し全問題を繰り返し習熟させた。このようなやり方は、欧米の授業では普通だといわれる。この方式を取り入れるべきだ。
学力というもの、学問というのは、個別指導、個人の思考と学習が基本である。画一的な授業、画一的なテストをして何になる。ユニークな、独自性のある人間を作ることが教育の本旨であれば、教育も本人に合わせた独自のものが必要だ。
みんな等しなみの細切れプリント類をやり散らかすのではなく、一冊一冊の教材を仕上げることによって、体系だった知識の骨格を身につけさせ、生徒の人間としての自信、人間としての容積を大きくすることが肝心である。

昔、私が若いとき、大阪の矢田というところで講師をして高校生にものを教えていた。
100人近くの高校の先生が集まっていた。
私はそこで講師を束ねる仕事もしていたが、私が先生方に頼んでのは、もっと親切に教えてくれ、ではなかった。そうではなく、私が力説したのは、そんなにまで教えるな、であった。
先生が教壇で一生懸命喋る、それを板書する、生徒はじっとそれを見、それを聞いている。ノートも取らない生徒がほとんどだ。しゃべり終えた先生は更に生徒のノートを開き、黒板の板書の内容を生徒に代わって書き込んであげる。・・・
生徒が英語の教科書を勉強している。分からない単語に出くわす。生徒が先生にこの単語の意味、文章の意味は何?と聞く。先生がそれをかんで含めるように教える。・・・
私は、そんな教育実践は地区の生徒達には有害であり、教育を阻害するものだ、といって止めさせた。
単語が分からなければ自分で辞書を引かせろ、間違ってもいいから自分で考えて訳を作らせろ、私はそれを言い続けた。
この生徒達が大人になって行商に出かけたとき、
自分で商品を仕入れ、自分で売る場所を決め、自分で工夫して値段をつけ、自分でお客さんに話をしなければならない・・・先生や親が何時までもついて回るわけにはいかない。
教科の学習を通じても、一つの物事の習得でも自分独自の方法、自分の力を発揮する経験と自信をつけさせなければならない。ほったらかしてはいけないが、生徒達を嵐の中に1人で歩かせろ、・・・。
私は先生方と地区の指導者を京都の三こ寺という山寺にまで連れて合宿までして、その事を説いた。
そして、翌年たっぷりの予算があった大阪市のその施設で、生徒と同じ数だけあった100人前後の講師の数を十数名に減らした。馘首した大勢の先生方の中には、かつて私が習った高校の先生で教えることに生き甲斐を持っていた先生も入っていた。

その結果1、2年の間に生徒の学力は急上昇し、ある高校のことであるが、先生が答案用紙をもって廊下にでて、奇跡だ、奇跡が起こった、と叫んでいたという。いつも0点に近い点数の複数の生徒が100点を取るということが起こったからであった。

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