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2008年7月

2008年7月30日 (水)

新採用職員へのメッセージ

News & letters 112/新職員へのメッセージ

8月1日より新採用の職員3人が就任する。
職員に期待するのは次の通りである。
第1に、役場は安楽な就職の場ではないということである。身分が安定しているから役場を選んだではだめである。
役場は、この人の世の正義と人道を実現する人民の拠点である。利権と不正の伏魔殿ではないし、堕落した公務員の安住の場でもない。
今、世界の情勢は、エネルギー問題や食糧問題、地球温暖化などで大変な状況であり、国家の財政も1000兆円を超す借金で沈没しそうである。
いつ疾風怒濤の時代に突入してもおかしくない。
国を牛耳っている政治家達には全く明日が見えず、ベキラの淵に身を沈めるまともな人は何処にもいない。
今、救国の志士が必要だ。
新入職員に望むのは、役場を自己の生活の糧ぐらいに見て、給料さえもらえばいい、勤務の時だけ働き、後は知らないというもので終わるのではなく、
日常普段にこの町や国家社会を、又住民をどうすればよくすることが出来るか、考えて実行して欲しいと言うことである。もちろん生き抜きも必要だし休息も必要である。しかし、自分の利益、自分の家庭の幸福だけのために公務員を務めるという姿勢は、止めるべきだ。公務員というのは住民に奉仕する職業であり、そのための毎日である、住民のためには時として自分の時間を犠牲にする場合もあるということを肝に銘じてもらいたいのである。
決して一部の者の利権に奉仕してはならないし、いかなる不正にも与してはならない。むしろ、それらを一掃し、正し、公正な住民サービスに徹しなければならない。時には、無法者と毅然として対決する必要がある。利権を求めて脅しや脅迫、いいがかりは役場に居ればしょっちゅうある。そう言う連中がむしろ恐れる様な存在でなければならない。
どこかの役場のように特定の議員や有力者が役場の人事を左右し、予算や請負契約にまで介入してくる、こういう状況については、断固として排除しなければならない。
しかし、住民に対しては腰を低くし、懇切丁寧に応対しなければならない。時として、地元民、有力者、同僚などと好きでもないのに酒場に出なければならない、接待をしなければならないという場面も出てくる。そういう場合は辛抱して辛抱して笑顔で応対するようにせねばなるまい。普通なら、避けて通れるけれども、公務員はどんな人でも、たとえやくざ系の人でも我々は応対しなければならない。
人道と正義を通すと言っても現実は様々な障害があり汚れた場所があり、切っても切れぬ人のしがらみがある。その中にあっても尚、人道と正義を通すのである。現実の泥の中に入るのである。泥に染まり泥に溶けて自分を見失い、そうして、腐敗と利権と汚職にまみれてしまう。そうなってはならない。

人道とは何か、正義とは何か、人はどう生きるべきかは、自ら学問をする以外にない。学問だけが諸君を泥沼から救ってくれる。
行政の世界は学問の世界であり、一日たりとも読書して学習することを怠ってはならない。
私などは常に県立図書館か大学の図書館から本を借りている。本を借りることが絶えたことはない。世俗の垢や塵から身を守るのは本を読むに限る。
公務員は1週間に一度は図書館に入るべきだ。
酒やタバコを飲まず本屋に入って本を買うべきだ。
そして先哲の書物をひもとき心を洗い、初志を思い出し、それの実現のために邁進しなければならない。
破邪の剣を右手(めて)に持ち、弓手(ゆんで)に法典・書物をもって、正義と人道に邁進すべし。

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2008年7月23日 (水)

県教委の新教育改革

News & letters 111/

橋本県政時代には土佐の「教育改革」とかで鳴り物入りで改革をやっていた。橋本氏が去って1年もたたないが、県民にとってその中身が何であったのか記憶すらない。思い出せない。高知県の教育水準はむしろ更に落ち込んだようだ。
今、尾崎新知事の基礎学力向上の教育政策があわただしく始まった。
私のところにも「学力向上・いじめ問題対策計画」というパンフレットが配られてきた。
県下の公教育の実態の把握はかなり進んでいるようだ。対策も「単元テスト」の実施など具体的な提案がなされている。
しかし、土佐の教育状況はもっと構造的な解明が必要である。対策も従来の指導やテストの強化では劇的な変化は望めない。
私は以前から主張していたことをこの機会にもう一度言わしてもらいたい。これは私の実践に基づくものである。

第一に、私高公低という高校格差を解体することで  
     ある。一部の私立高校に優秀な生徒を集めようとする傾向、集まろうとする保護者の偏向である。しかし、私高公低というのは実際には私低公低の結果を生んでいる。国公立大学、有名私立大学への進学状況を他府県と比べてみれば一目瞭然である。公立高校で大学進学の実績を上げなければ、優秀な人材は私立高校に流れる。だが、その私立高校では多くの生徒が落ちこぼれてしまう。
ごく一部の生徒だけが所期の目的を達成するが、公立高校に進学しておれば相当な成果が上がったと思われる大勢の生徒が期待に反した成績で終わり、平凡な進学先で涙をのむのである。
公立高校に優秀な人材を集中させること、優秀な人材がクラスに居れば、そのクラス、その学校全体が活性化し、レベルが上がる。先生も一生懸命勉強しなければならなくなる。公高私高という方向に舵を切り替えなければならない。

第二に、公立学校での授業方法の改革が全くなさ
     れていない、という点だ。
従来のやり方ではだめだ。先生が教科書など教材を読み解く、生徒がそれをじっと聞いて、整理され板書されたものをノートに写すという授業形式では、学力も思考力も上がらないし、時間がもったいない。一方的な授業をして、それを家で復習してこいという日本流の授業を続けていては学力などつきようがない。

私のやり方はこうだ。
学力をつけるには、例えば数学では、教材を自分の力で読み解き、自分流に整理し、例題の解法に習熟して、問題を自分で解く・・という思考作業を積み重ねるしかない。先生はそれを手助けする、点検したり間違いを指摘したり、行き詰まった場合に改題し、答えの出し方を実地にやって見せてやる・・・そして、生徒は自らの力で教科書一冊を仕上げたと思わせる・・という活動に徹しなければならない。そういうやり方にすれば、進むものはどんどん進み小学生でも中学生の教科書、高校生の教科書を仕上げていき出す。勉強がおもしろくて止められない、ということになってくるだろう。私は長年学習塾をやってきたがほとんど授業はやらなかった。授業をやる時間がもったいないからだ。生徒が自ら教科書を読み、自ら考え、自ら問題を解くという時間が大事だからだ。
生徒は全員教科書を数回繰り返し学習させ全ての問題を自ら解かせ、そのノートを毎日のように先生が点検し生徒に是正させた。教科書が終われば公立高校入試程度の問題集を与えそれを繰り返し解かせ、良くできたらさらに私立難関校の問題集をやらせるか、または、公立高校進学者には高校の教科書を与えてそれを自ら学習し全問題を繰り返し習熟させた。このようなやり方は、欧米の授業では普通だといわれる。この方式を取り入れるべきだ。
学力というもの、学問というのは、個別指導、個人の思考と学習が基本である。画一的な授業、画一的なテストをして何になる。ユニークな、独自性のある人間を作ることが教育の本旨であれば、教育も本人に合わせた独自のものが必要だ。
みんな等しなみの細切れプリント類をやり散らかすのではなく、一冊一冊の教材を仕上げることによって、体系だった知識の骨格を身につけさせ、生徒の人間としての自信、人間としての容積を大きくすることが肝心である。

昔、私が若いとき、大阪の矢田というところで講師をして高校生にものを教えていた。
100人近くの高校の先生が集まっていた。
私はそこで講師を束ねる仕事もしていたが、私が先生方に頼んでのは、もっと親切に教えてくれ、ではなかった。そうではなく、私が力説したのは、そんなにまで教えるな、であった。
先生が教壇で一生懸命喋る、それを板書する、生徒はじっとそれを見、それを聞いている。ノートも取らない生徒がほとんどだ。しゃべり終えた先生は更に生徒のノートを開き、黒板の板書の内容を生徒に代わって書き込んであげる。・・・
生徒が英語の教科書を勉強している。分からない単語に出くわす。生徒が先生にこの単語の意味、文章の意味は何?と聞く。先生がそれをかんで含めるように教える。・・・
私は、そんな教育実践は地区の生徒達には有害であり、教育を阻害するものだ、といって止めさせた。
単語が分からなければ自分で辞書を引かせろ、間違ってもいいから自分で考えて訳を作らせろ、私はそれを言い続けた。
この生徒達が大人になって行商に出かけたとき、
自分で商品を仕入れ、自分で売る場所を決め、自分で工夫して値段をつけ、自分でお客さんに話をしなければならない・・・先生や親が何時までもついて回るわけにはいかない。
教科の学習を通じても、一つの物事の習得でも自分独自の方法、自分の力を発揮する経験と自信をつけさせなければならない。ほったらかしてはいけないが、生徒達を嵐の中に1人で歩かせろ、・・・。
私は先生方と地区の指導者を京都の三こ寺という山寺にまで連れて合宿までして、その事を説いた。
そして、翌年たっぷりの予算があった大阪市のその施設で、生徒と同じ数だけあった100人前後の講師の数を十数名に減らした。馘首した大勢の先生方の中には、かつて私が習った高校の先生で教えることに生き甲斐を持っていた先生も入っていた。

その結果1、2年の間に生徒の学力は急上昇し、ある高校のことであるが、先生が答案用紙をもって廊下にでて、奇跡だ、奇跡が起こった、と叫んでいたという。いつも0点に近い点数の複数の生徒が100点を取るということが起こったからであった。

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2008年7月21日 (月)

東洋町教育の「異常事態」

News & letters 110/

ものごとの表層しか見ようとしない記者には教育委員の欠員の補充選任問題が異常だと見える。

しかし、東洋町の教育問題の深層(真相)はもっと大きな異常事態が存在する。それを新聞は解明しようとしない。新町政が初めて公然とその切開を試みている。
越境入学問題、耐震診断(耐震補強)率の異状な低さ、アスベスト天井の体育館の放置、運動場全体が借地の小学校、体育館のない中学校、くみ取り式で不快な便所、図書費の異様な低さ(各校年間15万円)、・・・・教育行政不在といっていいだろう。
違法な人為的原因で小中学校が衰滅しかかっているという越境入学などは、前々の教育長が言うには「私らがどうしてもよう取り組まなかったことを新町長がやってくれよる」と言う。
問題はわかっていながらも、あまりの大勢の越境入学者では地縁血縁などのしがらみにまかれて手がつけられなかったのであろう。
それの解決はまだその緒についたばかりだ。
教育委員会が暫定的に現状を追認したからである。これから新規の越境入学をしようとしてもその壁は高い。
高知県下どころか全国的にも異状なこの社会事象について社会部の新聞記者が目をつぶって、一方勢力争いの具にされた感のある教育委員の選任議案だけを取り上げ「異状事態」だという。地域に密着する記者の目は何処に据えるべきか、新聞社の倫理と良心が問われる。

毎朝7時半頃枕辺を騒がしげに子供達の元気な登校の声がする。喜ばしことだ。
しかし、手放しでは喜べない。地域の子供ではないとのことだ。校区外の子供達の集団登校だという。野根中学校は越境入学のあおりを食らって全校十数名にまで落ち込んでいる。野根の世帯数761、人口1351人の町の中学校としては異状だ。私はこれを議会内外で取り上げ克服するよう呼びかけた。まず母子の住居を偽って校区外に持って行くことだけは止めさせた。住民基本台帳の法令だけは犯してはならない。
学校現場の先生は教育行政に過剰に関わるべきではないであろう。しかし、全く無縁でいいというわけにはいかない。教材教具の要望は教育委員会にしなければならない、校舎校庭の整備も教育現場から声を出さなければならない。現場の教員もいろいろ教育行政に関わる場面がある。
中でも、校区制の遵守は義務教育の根幹である。公教育では、明治の学制改革によって、侍の子も貴族の子も、百姓町民、その他のいかなる旧身分のものも等しくこの校区制の義務教育に従うことになった。金持ちの子が貧乏人の子と同席する義務が課せられたのだ。近代日本では、旧身分制はこの公教育での校区制によって事実上打破され始めたのであった。
歴史的な意義を持つ校区制が、いつしか東洋町ではないがしろにされてきた。
越境入学を受け入れてきた学校の校長、担任の先生方もこの乱れた校区制の実情を知っていた。先生方は家庭訪問を何処でしていたのか。空っぽのアパートを尋ねたのであろうか。

甲浦小学校のグラウンドは狭い。野球が禁じられている。しかも、このグラウンド全体が民間人の所有物で賃借料を払っている。地主さんがいい人なので特別な配慮をしてもらって格別な地代で我慢してもらってきた。しかし、民間人の土地であるからいつかは返還するときが来るであろう。そのときには小学生はどこへ運動に行く?
伝統的に体育が盛んな甲浦中学校ではあるが、その体育館は存在しない。隣の公民館のホールを借りてその代替にしている。それも老朽化が進んでいる。
野根中学校の体育館の天井はアスベストが張り巡らされている。ボールが当たるたびに剥落している。又その体育館の周りのガラス窓も鉄枠がさびて相当大きなガラスを支えきれず、1枚1枚ガラスが床に崩落し続けている。直撃されたら即死となるであろう。
各学校図書は貧しい。教具教材費はわずかだ。便所は不衛生だ・・・・。
今年に入って新聞報道では、県下の小中学校の校舎・体育館の耐震化率(耐震診断率)では東洋町は最低の部類に位置づけられていた。

今年冬、厳寒の中、夜遅くまで町長が財政担当職員を引っ張って各学校の現状を点検してまわった。校長先生や先生に立ち会ってもらった。
そうして、東洋町の惨憺たる教育行政が浮かびあがったのであった。
財政担当職員は風邪を引いてしばらく寝込み、町長もこの数十年間で初めて風邪を引いてしまった。
町長や財政担当幹部が学校現場をまわってきたのは初めてだったということである。 新年度予算から、教育行政への相当大きな予算措置が始まった。教育行政の改革が始まった。
予算案を見れば分かるであろう。アスベストの除去工事、窓ガラスの総入れ替え、トイレの改修、耐震診断の完成、図書費の倍増、教材費の町負担・・・・

学校だけではない、2つの保育園の耐震補強の予算も計上した。
新町長は当初、補助事業を止めたり、補助事業のない一部の補助団体の職員給与を減額措置をした予算を組んだが、これには議会から猛然たる異議があがり、当初予算が否決された。特定団体の利益のためには必死になるもの達に、子供達の命にかかる教育行政の改革の意義が見えていたのであろうか。
これまでの議会で教育行政について積極的に発言した事例をきかない。異状に放置された教育行政こそ問題ではなかろうか。東洋町でも教育委員会のその存在意義があったのであろうか、疑問である。

県教委も、新聞も、議会も、そして保護者も、四川省で起こった大地震で中国の学校の惨状を見たであろう。それよりも数ヶ月前に、新町長と職員は東洋町の学校の惨状を見てまわった。
教育委員の選任、教育長の不在などよりも、眼は子供達の命、四民平等の拠点・ふるさとの学校の健全な存続に向いていなければならないはずだ。
その命の守護者達が自己の義務を全うせず、党利党略、利権あさりに目がくらみ、突然の天変地異の前になすすべがない。親たちも、がれきの前で泣き叫ぶ気持ちは分かるが、それよりも前におかしな校舎に気づいていたのであるから、こうなる前に当局に押しかけその前で泣き叫ぶべきであっただろう。

何のために郷土出身の立派な人物を教育委員に選任しないのであろうか。不可解だ。教育行政に無関心だった議会が、教育委員の選任(否認)に異常に執心し理由も言わず否決し続ける。
教育長に関係するかもしれない教育委員選任は、今も昔ももはや何らの利権事案ではない。

大分県の教員採用試験について

地域の有力ボスに対し「お金を出さなければ・・・になれないのやろか」というのはある年老いた母の最近の嘆き言であったという。
これは遠い大分県の話ではない。

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地球の危機を救う者は誰か

News & letters 109/

G8のサミットが無力をさらけ無様な失敗に終わった。もはや8つの列強では地球温暖化やエネルギー問題、食糧問題を解決することが出来ない。
世界各地でエネルギーや食糧を巡って暴動が起こっている。米騒動のようなことが世界中で勃発し始めた。

日本でも7月16日は全国の漁民が休漁ストライキを打つという前代未聞の事態も発生した。 保守陣営の一橋頭堡であった漁民が体制に対して根本的な変革を求めだしたのである。 経済学者だけではなく、もはやこれまでの資本主義の支配体制では人類の存続そのものが危ういということが普通の人の目にも見えるようになってきた。

温暖化については、2050年までに二酸化炭素の排出を半減させるというが、これも実現される可能性はゼロであろう。世界にまたがる巨大資本の利潤追求第一によって支配された地球はもはや全く自制がきかないのである。

二酸化炭素の排出、それによる温室効果だけが問題なのではない。膨大な量の二酸化炭素を排出する程の過剰な熱の放出が問題なのである。
工場や自動車、空調施設、ゴミの焼却炉、原子炉など地球を燃やし沸騰させるおびただしい釜炊きを止めなければ温暖化どころか過熱暖化によって人類は焼け死んでしまうだろう。人体で言えば38度に達する高熱状態でうわごとを言いながら裸で過重な労働をしているのと同じである。

原子力発電に血路・代替を求めようとしているが、それも、それを建設し維持するために莫大な石油資源を消費しなければならず、その上に解消不能な放射性廃棄物を積み上げばらまいて人類の脅威となり、原子力産業全体がこれまた巨大な熱の放出源ー地球温暖化の元凶となっていくのである。

人類は化石燃料の焼尽によってか、原発による放射能の汚染によってか、いずれの毒素によって早く衰滅するのか、競争しているようである。
その2つの毒素を噴出し狂奔させているのは、飽くなき資本の増殖の論理なのである。

G8のリーダーを番頭として世界支配を維持してきた資本家も中国・インドらの新興資本家国家の無制限なエネルギー消費は押さえられない。高騰し続ける燃料費では、漁民だけではなく、農民も運輸業者も、誰も彼も仕事をすればするほど赤字となり生活が出来ない。暫定税どころではない。

それに世界的な食糧危機がせまっている。自給率40パーセントの日本では、漁民や農民の生活が成り立たないということ自体で、直接国民の生存そのものが成り立たなくなる。
米騒動のような社会情勢、物情騒然とした世の中が日常の姿となる時代に入りつつある。
しかも今の体制では、解決の糸口も見えない。

北や南の氷山や氷河の崩落や融解を止めることが出来ない。異常気象、異常な生態系、異常環境が日常化してきている。世界を股にかけた資本家連中は、それでも自分の工場から排出する二酸化炭素等の有害物質の排出を止めない。あらゆる化石燃料を使い果たし、あらゆる鉱物を掘り尽くし、燃やし尽くすまでその稼働を止めようとしない。

現在の国家体制、現在の世界の政治状況では人類は救えないことは明瞭である。

全世界の働くもの、労働者階級人民が現体制を変革する以外に人類の生きる道はないであろう。 政治・経済・社会全体の革命的転変が起こらなくてはならない。現在の支配体制では、地球は救えない。救うどころかますます悪化させている。

道路はもう維持管理するだけにしてその大半の税金は荒廃した農山漁村の復興に向け食糧を確保し、環境保全や新しいエコ・エネルギーの開発費に大きな予算を回すべきだ。それぐらいのことも出来ない政府は存在の価値がない。

労働者階級がこれまでの体制を根本的に打破する行動を取らなければならない。それぞれの国情に合わせ、日本には日本のやり方でこの革命的転変・変革が遂行されねばならない。現在の日本の民主警察では、また自衛隊すらも、農漁民や労働者階級の整然とした進撃に対して野蛮な弾圧は出来ないだろう。国民の圧倒的多数が現在の閉塞された時代・旧体制の打破を望んでいる。

予断は許されないが国会や地方議会などの議会制度が有効に機能すれば、平和的にこの変革は行われるであろう。そうでないとしても、何らかの民主的な代議制や直接民主主義方式が編み出されるであろう。革命の時代であればあるほど民主主義の原則は保持されねばならない。

いかなる手段を講じても体制を変革しなければ漁師も百姓も生きていけず、労働者国民が生存できないことはあきらかである。単なる政府交替では不可能だ。革命的動乱の時代において、かつて都大路を赤旗をなびかせて変革を呼号していた君や私はただこのまま老耄して生涯を終わっていいのであろうか。

暴動を起こして憂さ晴らしをして終わってはならない。漁民の史上初のゼネストはそれ自体は大きな問題提起の意味がある。これをおこなった勇気とそのせっぱ詰まった気持ちに多くの国民が敬意を表する。が、体制変革の具体的な政策なしに休漁ストやゼネストやを乱発しても何にもならないだろう。 漁民や農民も労働者も自分たちが生きていく政治学や哲学を考えなければならない。

地球の自然環境を保持することが第一であり、人間も環境もどうでもよいという資本の増殖に我々の政治や経済を任せておく訳にいかない。資本が中心ではなくそれが優先ではなく、人間や動植物が存続できる新しい体制、新しい生き方、新しい人間関係(若きマルクスはそれを「人間主義=自然主義」と呼んだ)を構築しなければならない。そういう革命の時代が近づいている。 私は それを真の意味でカール・マルクスの「資本論」の時代が来たと実感している。

かつて昭和21年、私が幼児の折、南海地震が襲ってきた。私は母に抱きかかえられて近くの山に避難したという。不気味な地鳴りが上がり、人々の呼び交う声の中で、大地を揺すったその大地震に対し私の祖母は庭に出て天に向かって叫んでいたという。「世直れー、世直れー」と。 それが、幾千年、地震の度に私のふるさとの人々が叫んでいた声であり祈りであったろう。

私はそれと同じ言葉を世界の空に向かって叫びたい。「世直れー、世直れー」と。今は、革命的転変の時代の夢を見、人類の悲劇の回避を願いながら、現体制の中で精一杯の日常業務の小さい革命を積み重ね住民の福祉のためにがんばるしかあるまい。

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2008年7月16日 (水)

請求書の波紋

News & letters 108/請求書の波紋 議会のやりとり

例の観光協会への請求書を出すと、前の会長の代弁をするという田島毅三夫議員が議会で「緊急質問」とやらをやり出した。
その質問は前の会長の「質問書」と全く同じであった。
言いたいことは要するに、小松会長等が毎年数千万円の町営駐車場料金などを勝手に取って使っても構わない。それは観光事業に使ったのであるから構わないというのである。それに同調してなにやら分からない言葉で小野正路議員が質問中に不規則発言の声を挙げ議長の注意まで入った。
これは普通の議会人の言うことであろうか。
毎年数千万円の公金が行政機関との正規の契約もなく、議会の審議も議決も何の報告もなく、任意団体等によって取得され、費消されていた。それを新町政が問題視し、回復措置を執ろうとすると、議員たる者が議会で逆に切れて憤慨するのである。収益は観光事業に全部使ったというが、それではその使途について一度でも議会で審議をしたのであろうか。一枚の領収書も審議したこともないのに、その使途を正当化できるであろうか。仮に使途が正当なものであっても公金を適法な手続きも経ずに民間団体が勝手に取得して使用していいのであろうか。
田島や小野議員は誰に対して憤慨するのであろう。公の施設の敷地に誰の許可も得ずに私物の商売道具を設置して永年月巨額の利益を上げいた。そういう事実を突きつけられて議員たる者がチェック機能がおろそかであったと反省するのではなく、逆に事実を摘示した者に対して憤激し、業者の肩を持ち、その言葉を代弁すると言ってきかない、そんな議員の存在を人はどう見るか。
その業者の質問を代わりに私が質問するといい張るので、ここは議会だから議員の質問は受けるが、業者の質問は業者に対して答えているから、受けないと突っぱねると、議長の調整が入りやっと、議員の質問であると言い直して質問をするという始末である。そこまで業者の肩を持つことはなかろう。

議員は利権業者の使い走りではない。町民を代表する独自の存在でなければならない。

一方では、全く訳の分からないリゾート計画の利権がらみの請求書4000万円にに対してはこれを支払えという請願書を採択し、あまつさえそれを「議会だより」号外にしてまで町民にばらまいた。
一方では当然町に権利のある債権の回収については、猛然と反抗する。
プラス・マイナス二重の損害ではないか。

これが昨今の東洋町議会の一こまである。

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2008年7月15日 (火)

リコール裁判の争点

News & letters 106/

いよいよ、東洋町町議会議員田島毅三夫にかかるリコール裁判が7月14日午後3時から始まった。
この事件は今年3月18日から始まった町議リコール請求という県下では戦後一つか二つしかない珍しい事件で、有権者の三分の一を優に超える署名が集まりながら、リコール請求代表者の中に町農業委員という特別職非常勤公務員が混ぜっていたというところから、町選管が署名簿全てを無効としたものである。
この裁判の争点は町選管が根拠としたのが地方自治法などの法令ではなくて、50年前の最高裁判例というところであり、それ以外何の説明もないという異例のものである。
最高裁判例を金科玉条としている。

*第1の争点は農業委員が請求代表者に入ってなされた署名収集が「法令の定める成規の手続き」に違反している」という判断である。
しかし、肝心の「法令の定め」とは何ぞや、と尋ねられたら、違反するというその「成規の定め」なるものが何か、幾多くの規定のジャングルを渉猟しても地方自治法にもどの法令にもそれが存在しない、というところに大きな問題が出てきた。
最高裁判例が摘示するいくつかの法令も農業委員など非常勤の特別職公務員が直接請求の代表にはなれないという、そういう規定は何も書いていないし、どんなに強意的に解釈しても最高裁判例などが言うように請求段階も住民投票段階でも直接請求では公職選挙法が全般的に適用されるとは解釈できないものであった。
むしろ、地方自治法の直接請求の章では、リコール請求段階と住民投票段階とでは法令の適用が明確に相違していること、請求段階では条例制定請求の手続きが準用される規定になっており、公選法は直接請求の投票段階で準用されるということが明記されていて、最高裁判例などは法令の構造自体を理解しなかったのではないかという疑問が浮かび上がったのである。
だから、農業委員は請求代表者になれないという「成規の手続き」に違反といってもその成規の定めとやらそのものが存在しない、ということになったのである。町の選管も住民に説明を求められて説明できなくなり、後で調べます、といったまま未だに返答がない。町の選管が雇った弁護士の答弁書を見ても、最高裁がこう言っている、という文言のみでいかなる法令に違反するのか答えられないのである。

この間、高知新聞が、地方自治法によれば農業委員は議員解職の直接請求代表者になれない、と断言口調で書いた記事があったが、住民等にそれは地方自治法や施行令の何処に書いてあるのですか質問されると、専門家ではないから分からないという始末であった。
法令というのは社会の規範であるから専門家でないと分からないという法令はそもそも意味がないのだ。逆に、地自法令をまともに読めば、農業委員や消防団員など非常勤の特別職公務員には議員解職請求の署名集めなどは禁止されていない、すなわち許されるということはすぐに読み取れるだろう。

法令に違反といってその法令とは何ぞやと問われて、わんかんないでは済むまい。

*最高裁判例を金科玉条にする態度も問題があろう。学者先生は元より、普通の弁護士に尋ねてみよ。最高裁といわず、下級審の裁判といわず、日本の裁判が如何にでたらめな裁判が多いか、
陪審員制の導入の一つの大きな動機には、専門の裁判官の狭量な非常識が横行している現実に対して、ブレーキをかけるという重要な問題がある。
日本の裁判に常識の支配が必要だというところから、陪審制の意義が出てくる。

裁判所の判例ではなく、まず第1は法令の規定が先でありそれに何と書いてあるかが最重要だ。そして次ぎにその法令の解釈がどうかというのが第2であろう。第2の段階で裁判官の解釈や事件への適用の可否が問われるのである。法令やその規定抜きの裁判官のただの判断や解釈だけで人や事件が裁かれたら大変なことになる。
最高裁の判例もそうであるが、選管委員長やその答弁書でも地自法第74条の3項第1号のいう「法令の定める成規の手続き」違反というが、それは一体何の法令の第何条の違反なのか、指摘することが出来ていないのである。
法令(成規の手続き)に違反しているから法令違反だという同義反復では人は納得しないだろう。
地方自治法の法律でも内閣が命令で決めたその施行令や規則でも農業委員が議員解職請求活動をしてはいけない、という規定は何処にもない。
署名収集が終わり署名簿を提出する請求段階では、基本的には誰でも許されている。
署名簿の提出を経過してその請求について可否を問う住民投票の段階では公選法が適用される、その場合には公務員(大方の特別職の非常勤の職員含む)の活動が制限され、直接請求の代表者として政治活動が出来ないという制限が課せられるというのが地方自治法の第五章各条項であり、それについての施行令なのである。今回の東洋町の場合は農業委員が関わったのは請求の署名簿を提出する寸前までであって、投票段階の公職選挙法が適用される以前のことであった。地自法の法令には何にも抵触する事実はなかったのである。


*そして、もう一つ重大な問題は、仮に、地方自治法の施行令で農業委員は直接請求代表者にはなれないと規定されていた場合はどうかである。
(念のため繰り返すが、そのようなことは施行令には規定されていないのであるが、数少ない判例ではそのように記述されていると信じているらしい。)
この場合法律で許されている国民の権利を内閣の命令に過ぎない施行令で制限することが出来るのか、という問題である。
法律は全て国会で審議され議決されねばならないというのが憲法41条の定めである。
国会で定められた国民の権利を、内閣の命令で取り消すことが出来るのか。そんなことが許されるとしたら、戦前の勅令のようなもので権力を握ったものが勝ちであり、何でもできる、議会の権能は無となり行政権力の専横がまかり通ると言うことになるであろう。
地方自治法の法律での規定では、直接請求は有権者であればできるとなっていて何も農業委員について禁じられていないのに、政令でもって、農業委員や消防団員などまで直接請求の権限を除外するというのは明らかに憲法違反であろう。
実際の施行令ではそのような規定は存在していないが、仮にそのような規定(政令)が存在したとしてもその規定そのものが憲法違反であり、無効な規定となるであろう。

東洋町の今回の裁判は1町会議員を議会から追放するかどうかというレベルを遙かに超えた。
特別職非常勤とは限らず公務員全般の参政権に関わる重大な裁判であり、時の内閣の恣意によって法律がゆがめられ国民の権利が奪われていいのかどうか、これを問う大裁判に発展している。

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2008年7月10日 (木)

請求書

News & letters 105/

東洋町の駐車場の料金が東洋町の会計に入っていませんでした。平成11年度から18年度までの8年間分(7200万円余)、経費を差し引いた分の請求を前の観光協会会長小松さんにさせて頂きました。
この観光協会は法人化されていず任意団体です。任意団体の会長をずっとやってこられた小松さんに請求させていただきました。この団体は銀行で借金をするときも小松会長の個人名でやっていました。

いわゆる「権利なき社団」ということになりますが、収益事業で収益を上げている場合、また、不当利得が問題になっている場合は役員の個人責任は極めて重いものがあります。
施設の管理を委託されていたからといって、観光協会又はその役員なり会員が勝手に町の駐車場料金を取得して団体に入れていい訳はありません。
毎年数千万円の金を「観光事業」に使ったと言っても、その公金の取得の正当化にはなりません。
いい目的に使うということで、公金を勝手に使えるなら、暴力団でも誰でもそういうことは言えるわけです。例えば組員の更正のために町の駐車場料金を取って使いました、と言えば、通るでしょうか。
また、小松さん個人の場合、町が管理している駐車場や役場に勝手に自分ところの自動販売機を持ち込み営業利益を上げていた訳ですから、その責任も重大であります。今はそれら全ては撤去してもらい、駐車場からも一切関わりがないように措置し、駐車場料金も町の管理下(町が100%出資の会社管理)にあります。自動販売機は町が業者と直接契約し、手数料も全部町の会計に入っています。
小松個人や、小松が会長をしていた団体の公共施設実効支配体制は完全に解除されました。
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核導入の財政的こじつけ

News & letters 104/

昨年平成19年5月20日に私が町長就任した最初の議会で、ある議員が議案に対して「反対討論」をした。その冒頭にいう。
「町財政が、平成20年度まで組めないと言われました。この逼塞財政をですね、再建するために前町長は、高レベル放射性廃棄物処分場を誘致して、財政再建をおこなおうとした訳であります。」(議事録24頁)
これが核「反対」派だという議員から出された言葉である。これが東洋町の財政状況を偽ったものであることはすぐに知れる。

確かに平成18年後半から19年4月の町長選挙までこのような言辞を弄して核推進派が町内に不安を煽ったことは確かだ。
東洋町の財政は厳しいということは確かであり、財政指数が県下でも最低の部類にはいることも確かだ。しかし、予算が組めないと言うほども落ち込んでいるわけではないし、核の交付金かそれに相当する何かにすがらないとやっていけない程に、財政が不健全になっているわけではなかった。
不健全ではあったが十分立て直しのきくものであった。

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添付した資料を見れば分かる。核が持ち上がる前3年間(平成15年度〜18年度)を見ても毎年数千万円の単年度黒字を続け、6億円以上の基金は別にしても現金でも累積1億円余りの余剰金を持っていた。黒字財政だったといえるだろう。
確かに借金は40億円ほどはあるが、決められたとおり4億円ほど毎年着実に返済してきた。

新町政が発足してもなおそのように予算が組めない程「逼塞財政」であったなどといって、前町長の核導入政策を弁明することは許されないだろう。
町の決算書を見たこともない者が虚偽宣伝に迷わされることはあるかも知れないが、毎年決算審議をしている議会人が主張することではない。
その議員は、私は、核「反対」運動の先頭に立って闘ったと主張しているが、核が決着したのになお核導入の際の虚偽宣伝を議会でやっていたのである。

19年度も6000万円近くの黒字を残している。こうして、だんだんに借金は減っていくだろう。
空洞化していた福祉や教育を重視し、産業を復興する東洋町の行政は着々と進んでいる。

この問題も含め住民とその議員(田島毅三夫氏)との法廷での対決はいよいよ7月1日に始まった。

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2008年7月 7日 (月)

海の駅将来イメージ

News & letters 103/

東洋町の「海の駅」は小粒ながら順調です。

議員の中には反対するという人もおりますが、今は全国何処の市町村でも「・・・駅」が設置されている時代なのにどうして「反対」が出来るのだろうか。
採算が合わないといって、設置費用や運営費などのコストと出店者からの手数料収入を計算して議会で「追求」するというのです。
それでは公共施設を建設して使用料などの収入でその施設の建設費や運営費のコストをまかなうという計算でいけば、どうなるであろうか。ほとんどの施設が利用料や手数料収入では数百年・数千年かけても建設費も出てこないであろう。
東洋町役場の裏に地域福祉センターがある。これの建設費は6億数千万円だ。この施設の1年間の利用料金合計は3万円程度である。
これで建設費を出すと計算すると約2万年かかることになる。1回の使用料を100万円単位にしないとコストが回収できない。・・・・・ばかげた話は止めよう。
公共施設は、しかし、最初からコストが合うように出来ている。すなわち国民は税金を出してあらかじめ費用を負担しているのである。

Img002ところで、東洋町の「海の駅」の場合は設置費と収益とでコストと収益が合うように設計されていた。
1年で収支が合うなどというこんな施設も珍しいだろう。設置費や人件費で約1000万円、管理者の手数料収入と出店者の収益が合わせて1000万円以上。集客数4万〜5万人。
議会で反対する理由が何もない。
海の駅の将来のイメージを添付します。
費用は3000万円程度でやります。

Img003屋根に太陽光発電を設置するつもりですが、この費用は別です。太陽光発電の設置費用は例の道路の暫定税率のおこぼれが東洋町に1500万円ぐらい入ってくる予定ですから、これをあてがうということも考えられます。「海の駅」大方のご意見をお願いします。

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