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2008年2月19日 (火)

西岡智「荊冠の志操」出版記念集会

News & letters 64/西岡智「荊冠の志操」出版記念集会に出席して

2月17日(日)夕方6時 大阪上六の都ホテルで開催されました。私も招待され出席しました。
西岡智は私の解放運動の師匠であり現在関西での東洋町支援の司令塔ともなっています。
この人は戦後部落解放運動の最大の功労者でノーベル平和賞ぐらいのものは授与されてもおかしくない、そのような存在でした。今高齢になり病体ではありますが、いまだに気骨のある警句を発し続けています。それを本にしたのが「荊冠の志操」です。
その清廉潔白な姿勢のゆえに現在解放運動の本流から疎遠にされ、いわば「失脚」したようなかたちになっていますが、戦後の解放運動を切り開いた最大のリーダーであったという事実は消えないでしょう。

私が、西岡智にあったのは昭和43年ぐらいの初春であったと思います。当時私は大学を卒業前で、ある新聞社の筆記試験に合格し、就職の前祝いをしていたところ面接試験で私一人不合格になり、奈良本辰也先生の紹介状をもって、大坂環状線の桃谷駅近くの解放同盟中央本部に来ていました。
奈良本辰也教授は立命大学の日本史研究室の中心人物で同時に部落問題研究所の理事長でもありました。私はそこの歴史学徒でありました。
しかし、中央本部の谷口修太郎事務局長はすでに別の人間を採用しようとしていて私の採用についてうんと言いませんでした。私は執拗に3日か4日通って就職させてくれと頼みましたが、修太郎事務局長は肯んじません。先に採用が決まっていた人は地区外のもので、しかも私が大学で立命日本史学の恒例の「夏期講座」で部落史や女性史を取り上げるように主張したときそれに反対したひとでありました。
昔の旅館を改造した木造の中央本部の一室で自分を働かせろと執拗に食い下がっていました。
どうも採用されないという理由は私が中核派の学生運動をしていた、ということが理由だということでした。要するに過激派だということを誰かが悪く告げ口をしたのでしょう。
そのとき、板壁一つで仕切られた隣の大阪府連の書記長で中央本部の常駐の執行委員だった西岡智がその様子を見ていて、「部落の子が大学を出て解放運動で働こうというのは例のないことだ。中核派でも何でも元気のいい青年だから採用してやれ」と言ってくれ、また、たまたま本部に来ていた中村拡三(同和教育)先生が言葉を添えてくれて、私は中央本部の書記の職に就いたのでした。

私が不採用になったある新聞社の面接試験では私にとっては忘れることが出来ないおそるべき事がありました。
面接試験には筆記試験に合格した学生10人ぐらいがおりました。私が呼ばれて入っていくと10人ぐらいのいかめしい試験官がおりました。その中に肩書きが編集長で たかぎはっしゃく とかいう人が主に私に質問をしてきました。他のことは忘れましたが、次の問答ははっきり覚えています。
問 「あなたの父親は誰か」
 私の父は・・・・です。幼い頃父母は離婚しました。
問 「しかし、あなたの戸籍には父親の名前がない」
 いいえ、そんなはずはありません。私は母と父と姉 
 と4人で一緒に暮らしたこともあります。
問 「この戸籍にはあなたのいう父親の名前は記載 
 されていません」
私は返答に窮し、顔が真っ赤になっている事が分かるほど血が頭に上っていました。
私は戸籍謄本などは中身をよく見ずに提出していましたので、不覚を取ったわけです。
面接試験で落とされた理由は、親の事だけではなく学生運動のこととか、また筆記試験の成績とか他に理由があったかも知れません。
私の母は、結婚したけれどなぜか父の戸籍に入籍されていなかった。従って私と姉はいわゆる「ててなしご」として母の籍に入れられたままだったわけです。
父の系統は徳島の神主で母の出自を問題にしたのでしょう。私が徳島の福島小学校の時分、父の親戚が経営する大きな旅館に天皇陛下(昭和天皇)が宿泊に来た。そのとき親戚一同が玄関に並んでお迎えをしたなかで、なぜか、母はその中から除外されていたという。

私は自分の出生の経緯からも、又自分が生まれ育った貧しい地域の事情からも解放運動に一生を捧げようと決心して勉強し、生活を律していました。
私の生まれた部落は後に分かったのですが、大阪市立大学の山本登先生が実態調査に入っていてそれをまとめた本で「まさに文化果つるの地」だと断定したそういうところでした。
私が高校生の時は60年安保闘争があり高校生の時から政治や社会問題に強く興味を持っていました。大学は部落問題研究のメッカであった立命館大学の日本史学を選んだのでした。勿論卒業論文も部落問題でした。学生運動ばかりの4年間ではあったが、部落問題や同和教育が私の専門だと考えて勉強してたのでした。だから、私こそが解放運動の拠点に入って働くのは当然であると信じていたのです。

西岡智の鶴の一声で私は解放運動の第一線に立ったのです。
当時は西岡智が大阪でも全国でも解放運動の輝ける指導者でした。私はその元で数年間を過ごしました。そしてその当時は全国水平社の生き残りの指導者がまだ元気でした。朝田善之助、岡映、上田音吉、北原泰助ら・・・が生き生きと活動していました。共産党も社会党、民社系のものもみんな一緒でした。中でも私は岡山の岡映にかわいがられ、夜寝るときもいつも同じ部屋に引き込まれ昔の闘争の思い出を語ってくれたものでした。ただこの人は寝るときものすごいいびきをかくので閉口しました。
今では解放同盟と言えば利権集団かなにかのように嫌われているむきもありますが、当時は解放同盟と言えばみんな粛然として襟を正す、世の不正を打つ、それ自体が倫理的な存在であったのでした。
私は西岡智の言うことはろくに聴かなかったし、西岡の期待を裏切り続けてきたものですが、大衆運動としての解放運動を生で経験させてもらい、常に一緒にいて種々の教訓を聴かされたことは私にとって非常な幸運だったと思うのであります。
無実の石川一雄にかかる狭山の闘争も最初は誰もその重要性を理解していませんでした。関東の一地方の出来事という取り扱いでした。中執では野本武一さんが遠慮しがちに問題提起をしていました。
私と西岡がこれを戦前の高松裁判闘争以上の大闘争にしようと決心したのです。
私は組織の外に出て全国を歩いて自由に戦線を拡大し、西岡は解放同盟本体を大きく動かしました。

      (続く)

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コメント

トラックバックをつけようとしたが、うまくつかないのでコメントとします。
最近「荊冠の志操」を読んで、この沢山さんが、あの沢山さんだと、初めて知りました。
このことをこちらに書いてます。
http://itoe.cocolog-nifty.com/tzurezure/2009/04/post-a4f2.html

投稿: いとえー | 2009年4月24日 (金) 22時31分

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