2018年2月20日 (火)

高知新聞「核廃迷走」 の続き

News & Letters/620
交付金の餌と放射能への無知を利用して応募地を募り、そこを即適地として最終処分場を建設するという目論見は東洋町で最終的にとん挫した。
そこで政府は、新たな手法として科学的有望地を選定し、上から国民の合意を「形成」するというやり方に転換した。
しかし、合意「形成」として金で学生を動員したりして努力しているがかえって国民の不信と反発を買ってなかなか進まない。
国民の最終処分場への合意形成、その前提となる「国民が決断を下す環境」(連載記事⑧)が整うのが大前提だが、高知新聞はその「環境」について何も語らない。まともな新聞社は少なくとも次の二つは言わなければなるまい。
すくなくとも、
第一に六ケ所村の再処理工場を止めることだ。使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出すという
工程からは元の燃料の何層倍(ある試算では少なくとも6倍)もの新たな核廃棄物が生まれる。
第二に原発の稼働をやめることだ。
これら二つの「環境」整備は核廃処分について国民合意の絶対的な条件である。
その二つ条件を満たしてもそれでもやはり国民の合意形成は超困難である。自分の住むところや近隣に核廃棄物が埋められるということを当事者として想定してみればすぐわかることだ。自分のところ以外のどっかを想定するからそれが実現できると思い込むのである。
そこで政府が以前から持ち出しているのが「中間貯蔵施設」での暫定保存である。
中間というのは
①原発と最終処分との中間という意味と
②原発と再処理工場までの中間という二つの意味がある。
②のコースは破綻しかかっている。問題は①のコースであるが、最終処分場の建設はほぼ絶望的であろうから、中間施設での管理を永続的に進めるという方策しか道はない。これは玄海町だけなく、原発があるところでは今の状況では容易に実現可能である。
すでに使用済み核燃料を原発施設内で中間貯蔵を行っているからである。
政府は最終処分場建設を模索しながら、実際には中間貯蔵施設への転換を推し進める。
埋め捨てをもくろむ地層処分の危険性よりも地上施設での管理はなお一層危険である。
原子炉のような何層ものバリャもなく、永久貯蔵のためのセキュリティも備えない中間施設をなし崩し的に長期貯蔵施設
⇒永久施設に転用する企みの欺瞞性は隠すことはできない。東洋町を経ていまや国民は容易に騙されない。
そして、最後に言わねばならない。
最終処分にしても中間貯蔵の永久化にしても国民の合計「形成」は容易ではない。
引き続きマスコミのフェイク宣伝の力を借りながら政府の最後の手段は、沖縄の辺野古基地建設強行の方式をとることである。
強権を発動して処分場の建設を強行しだすことは目に見えている。それはここ十年か二十年に迫っている。
その時に日本人民はどのような戦いをするのか、これまでのような法廷闘争や住民投票などの平和的な方式だけでは勝てないだろう。

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2018年2月18日 (日)

続 高知新聞「核廃迷走 東洋町から10年余」について

News & Letters/619
この連載の最後⑧に、国が主導する最終処分場の選定のための「科学的特性マップ」をもとにした国民への説明会を取り上げ、説明会へのやらせ動員のフェークが露呈した事を取り上げた。このような世論操作の例として九電のやらせメールもとりあげ核廃や原発稼働に対する「国民の不信感」、「不信続く処分事業」を強調する。
国や電力会社への国民の不信はそのとおりだが、それでは、高知新聞が東洋町の「騒動」前、その後の新聞広告でNUMOの核廃最終処分場(地層処分)の安全広告を繰り返したのは、どのように説明する。?
連載記事⑦で、日本学術会議の核廃問題についての提言を取り上げたが、その提言で日本列島では核廃問題を解決する地層処分は不可能だという最も核心的な疑問的提言を記事から没却したのは何故だ。
連載記事⑦で日本学術会議の提言で核廃の「暫定保管」を紹介しているがそれは、日本における核廃の最終処分としての地層処分に対する疑問を前提にしている。「長期に安定した地層が日本に存在するかどうかについて、科学的根拠の厳密な検証が必要である。日本は火山活動が活発な地域であるとともに活断層の存在など地層の安定性には不安要素がある。」(2012年9月12日日本学術会議(「回答 高レベル放射性廃棄物の処分について」)
地層処分の有益性を宣伝した新聞社が日本学術会議の核心的提言を隠そうとするのは自然なことだ。
国民の死活に係ることで、政府や電力会社のフェーク宣伝を紙面いっぱいにして広告費を稼ぐ新聞には倫理も正義も何もないのか。
東洋町の「騒動」のことも「表面化したのは2006年9月。」(連載記事④)という。それは確かに私が9月の室戸市議会で東洋町の核廃問題を質問通告したとき、それを契機にして高知新聞が取り上げたのが最初でそれから「騒動」は本格化した。
だが、高知新聞の室戸市局は、私が知る何か月も前から東洋町役場や議会の核廃への極秘の動きを知っていたが東洋町長との約束でそれを伏せていたという。新聞社の使命は、国民に対して一刻も早く真実を報道することだ。
敵側の体制が整うまで攻められる国民には情報を隠してもよいという姿勢が、報道機関の誠意であろうか。

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高知新聞 特集記事「核廃迷走 東洋町から10年余」について

News & Letters/618
 (論評1)            
高知新聞が最近高レベル放射性廃棄物の最終処分場をめぐる東洋町の騒動からこの十年余を総括する記事を連載した。
私は高知新聞を購読していないので全部は見ていない。
総括すること自体はいいことである。力作といいたいところだがどう見ても内容がうすっぺらで粗悪である。
おおざっぱに批評しても次の問題がある。
記事① 核廃問題で起こった東洋町での「騒動」の話をはぐらかしている。
現東洋町議会議長で当時核廃推進のリーダーだった西岡の話(「やらんでよかったと思う」)を載せそのきっかけが「やはり東京電力福島第1原発事故」という。
しかし、原発反対運動をした町民から何も取材せず推進派をのみ取材しその転向(改心)とそのきっかけとして福島の原発事故を挙げる。
高知新聞は何を言いたいのか不審を覚える。推進派の巨頭の一人だった男の変身の理由など問題外だろう。
東洋町の反対の「騒動」は東北大震災・福島原発事故の4年前に起こったのだ。なぜ原発とは縁もゆかりもなかった東洋町で猛烈な反対運動が沸き起こり町役場や政府の策謀が粉砕されたのか、この事実と経緯が第一の総括でなければならない。
福島原発事故を知らない町民が猛烈に立ち上がったのである。問題のすり替えも甚だしい。
記事②で九州の玄海町と東洋町との違いを論じる。
玄海町の状況、藤浦元共産党町議の発言(玄海町内で反対派の声が挙げづらい)を紹介し東洋町が町長選で住民がNOを突き付けた事例と比較して「核廃を意識した二つの町の違いは何か」と自問する。
記者の答え。玄海町の岸本町長の言(東洋町の場合は「反対派やマスコミに引きずられた結果」)やNUMO幹部の同様の発言を紹介し、「だが、07年の取材を思い返せば、この見方は一面的に映る。」として記者は「これまで東洋町を含む15以上の自治体で、候補地選定に向けた・・・・そのほとんどが原発とは無縁で、過疎にあえぐ小さな町村だ。それ故、「交付金を生かした振興のため」以外に、調査を受け入れる理由は説明しづらい。」という。
核廃問題が起こっても住民の反対運動が起こりづらいという玄海町と圧倒的な住民による反対運動が沸き起こった東洋町の違いは何ぞやと自問しておきながら
その回答として「調査を受け入れる理由」=「交付金」を挙げている。交付金は推進派の理由であり動機であって住民の反対運動の理由ではない。
この破たん調の論理の狙いは、意図するしないに関わらず核廃騒動が「交付金」をめぐって起こったかのような印象を読者に与える。
しかし、無論、東洋町の住民が起こした「騒動」は放射能への恐怖による本能的な拒絶感情からであり、お金の問題などではない。
高知新聞の今回の企画は核廃について東洋町住民の正しい戦いの歴史を矮小化しペテン的にすり替えようしていると言わざるを得ない。
 
核廃問題では、受け入れを表明した玄海町長は町内外の猛烈な抗議を受けて数日のうちに完全に撤回した。私は、玄海町に入って当時戸別にビラまきをしたが原発は別だが、住民の誰一人として核廃に賛同するものはいないと感じた。
原発の至近距離の唐津市民(串地区)の一部が受け入れに賛同する動きがあったがそれもすぐにつぶれた。
核廃については東洋町も玄海町もどこの住民も同じ感情であり、拒絶反応であることを記者は知るべきである。

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2018年2月13日 (火)

高知新聞2月10日記事「高知政経懇話会ノート」について

News & Letters/617
平昌五輪で南北朝鮮の対話が進んでいることを安倍はにがにがしく思っている。
とにかく東アジアにおいて最も危険な存在は北朝鮮よりも日本の安倍政権である。
安倍らは米国トランプが北朝鮮へ全面的に爆撃することを希っているのである。
高新が掲載した道下氏の論理にはこのことが全く分かっていない。
「敵基地攻撃能力」を日本が持つことも賛成だという。高知新聞の好戦的姿勢もこれで窺知できる。
東アジアの軍事的勢力図は、
①日韓にある米国の核兵器を持つ軍事基地及び太平洋の海上や海底をうごめくアメリカの艦船
②中国、ロシア、北朝鮮の核兵器を基軸にした軍事力
③そして米国と連携した日本の軍事力。
この①②③の勢力が東アジアの平和を望む人民の脅威なのである。
②の3国にはそれぞれ異なった思惑があり、独自の軍事的脅威を振るっている。
③の日本の脅威は安倍政権という突出した戦争推進勢力が表面で踊っているが、
その背後には三菱重工ら軍需産業が暗躍している。
原発関係の組織や企業の重要なトップには三菱の血脈が色濃く刻印されている。(詳しくは広瀬隆「私物国家日本の黒幕の系図」)
どんなに危険であろうと、どんなにコストがかかろうと、核兵器生産を狙う三菱などの
財閥系の死の商人が、原発、再処理工場の稼働を死守しようと血道をあげている。
日本の死の商人にはプルトニウムを確保することが至上命令なのだ。
日本の死の商人の暗躍とその代理人自民党と安倍政権の存続は、北朝鮮よりもなお東アジア人民の最大の脅威であろう。
日韓にある米軍基地、日韓の原発、これらを撤廃しないで北朝鮮だけの核とミサイルの撤廃をいうのは強盗的というべきだ。
東アジアのプロレタリア人民は①②③の軍事的脅威の全面的廃止を目指して戦うべきだ。
原発問題は、エネルギーの問題であり放射能の環境問題であるが、何よりも軍事問題であり反戦平和の問題である。

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2018年2月 7日 (水)

高知大学(高知医大病院)への質問状

News & Letters/616
高知大学医学部附属病院は数年前、その薬剤発注に関する契約等において澤山らの告発を受け会計検査院が入り込みその不法行為が弾劾され、国会にまで報告された。
だが、財務担当の理事が交替するや否や、またぞろ大きな権益事業(「アメニティ施設新設」)について異常な公募をしている。
これは官製談合の疑いがある。既に大手県外企業Hの名前が取りざたされている。
応募期間が1週間という短さを一見しても明らかであろう。出来るだけ公募も公表もせず特定業者と契約したいという意図が見える。
これとおなじ調剤薬局を核とする「アメニティ施設」が滋賀医大でも建設されたが応募期間は1ヶ月であった。
 

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2018年2月 6日 (火)

相撲部屋の暴力

News & Letters/615
昨年の日馬富士の暴力事件以降、相撲協会の不祥事が相次いで明るみに出ている。
とりわけ暴力事件は相撲部屋ではモンゴル勢だけでなく日常茶飯事のようである。
貴乃花親方、貴の岩関自身も暴力を振るって力士にけがを負わせていたことも発覚している。
親方が弟子を暴力でたたきあげる。兄弟子が弟弟子を殴る。暴力に耐えられない者は相撲界を去る。これはどういうことか。それは「親方・部屋制度」に由来する。疑似家父長制をとるこの封建遺制では、暴力がその組織運営の原則だ。封建制度の基本を支えるのは暴力だからである。
武士階級が民百姓を支配しその生産物を横奪し搾取するのは暴力を槓桿としてである。
封建制度を支える暴力の支配は儒教の人倫の教えによって合理化され美化されるが、
本質的に暴力の貫徹そのものである。親方が父であり、入門者はそれによって養われるから、
親方は弟子のほとんど生殺与奪の権を握る。文句を言えば鉄拳が飛んでくる。
野球やサッカー、水泳、陸上競技など一般にスポーツの世界は暴力とは無縁である。
相撲界だけに目を覆うような暴力が横行しているのは、江戸時代から続く「親方・部屋制度」の封建的な家父長制に原因がある。
この際この暴力の巣窟である「親方・部屋制度」を解体しこれから力士を解放し、組織を近代化しなければ暴力沙汰はなくならないだろう。
相撲の興行によって得られる収入は最下級の新弟子たちにも給金として支給され、相撲協会が全体としてコーチを構え、けいこ場を運営し練習を保障するという制度に切り替えるべきである。
弟子たちは部屋を離れ、相撲協会の合宿所に住むなり、個々の住居に住むなりして親方、古参力士の鉄拳から自由にならなければ旧帝国軍隊のような相撲協会の暗いイメージは払しょくされない。
政府文科省は、働き方改革を言うのなら、力士の処遇の改善、暴力支配の職場の根本的(解体的)改革を提言すべきである。

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2018年1月16日 (火)

原発裁判

News & Letters/614
国民による原発裁判は種々の方法、論理で戦われている。
地震(火山)や津波による原発施設の破壊の危険性が主な理由である。
このような裁判では、専門家が主体となり市民がそれらに依存し、応援するしかない。
民衆訴訟といっても法廷は弁護士や専門家の独壇場である。
住民は厳密に彼らの弁論を理解できるか、ほとんどできないであろう。
弁護士や専門家は時に高圧的に原告である住民の意見を平然と無視する。
 
原発が人類にとって最も危険であり許容できないものである最大の問題は、
その稼働中の事故や被爆の問題よりも遥かに深刻なのは、放射能の塊であるその廃棄物の生産である。
この使用済み核燃料の安全な処理方法は、原発稼働や原爆製造が始まってから今日まで全く確立されていない。そして、原理的に処分方法は確立できない。プルトニウムやセシウムなど放射性核種は元素であり、これを分解して無害化することはできない。

何万何十万年かけて自然消滅するまで安全に保管しなければならないが、数千年の歴史しかない人類がそのような気の遠くなる未来まで責任をもって管理できるか、ありえないことだ。これはだれにでもわかる話だ。

しかも現在、それの最終処分場は日本のどこの市町村でもそれを受け入れるというところは存在しない。
原発が欠陥商品であることの証左は、しかも致命的な欠陥を持つ商品であることは自明のことであり、それこそが原発の最大の問題である。どんな優秀かつ安全な高性能の原発もこの猛毒の廃棄物生産という欠陥から逃れられない。
原発裁判は、この核廃棄物をめぐって行われてしかるべきである。稼働中の原発の事故をあれこれと追及する付け足しに廃棄物問題を出すのではなく、裁判の主要なテーマとして取り上げ闘われる必要があると私は考える。
 
そうすれば、論理は単純かつ明快であり、専門家や弁護士と同列になって住民が訴訟の中心となれる。
その裁判の主張は、
①いかなる原発も猛毒の使用済み核廃棄物を生産する。
②これの安全な処理方法は存在しないし安全な管理方法も存在しない。処分場を受け入れる市町村はどこにもない。

③電力会社や政府は、②の主張について合理的な反論をしなければならない。
結論:
④この核廃棄物の安全な処理ができるまで原発の稼働はやめるべきである。
 
しかも政府が最近地図で処分場候補地として示したように全国ほとんどどこでも国民は原告適格となっている。

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2018年1月 2日 (火)

民主主義

News & Letters/613
どのような組織でも、革命団体から行政機関、反体制運動・・・あらゆる組織でそれが反動的な目的でない限り、その運営は民主主義的でなければならない。それは、道義的な選択の問題だけではない。
組織を一元的な上から下へ上意下達方式では、危機的な事態を乗り越えることができないことが明らかになった。
それが福島第一の原発事故で、吉田所長らの懸命な事態収拾の努力も水泡に帰すという教訓が導出された。
それが、MHKスタッフが作った「福島第一原発 1号機冷却失敗の本質」(講談社現代新書2017年10月)という本である。
1号機に必死に冷却水をちう入しているが、実は、ほとんど原子炉に水は入っていなかった。
Fukusimagenoatuhigai
それを東京電力の現場も司令塔もわからなかったが、他所にある柏崎刈羽原発の所長が気が付き重大な疑惑を提起していたが、取り上げられなかった。その原因は、組織の運営方法にあった。
 
「事故の際、組織の意思決定の方法は大きく分けて二つの形に分類される。ガバナンスとマネージメントである。
ガバナンスというのは、複数の意思決定主体がいる中で、それをうまく調和させていくように体制をつくる手法、一方でマネージメントは縦の意思決定のフローを作り、意思決定を一元化していく方法だ。
畑山は「ガバナンス構造をちゃんと持っていたら、柏崎と福島第一原発がダイレクトに話をし、意見交換をすることもできたかもしれません。
しかし、東京電力の組織対応は、マネージメントの体系をとっており、本店を介さずに重要な意思決定を行うことは難しかった」とデータから浮かび上がった組織体系の課題を分析した。」
 
しかも、福島第一には、中央制御室と免震棟の連絡線も一本の電話しかなかったという。
多様な意見、多様な意思決定主体が、協議をし、調整をしながら共同した行動をとる。これを「ガバナンス」と呼ぶならそれでもよい。
一定の意思決定に対し、異議や異論を問答無用に排除する組織の運営は、人類史的な危機を克服できないばかりかそれを増幅する。
原発も戦争もあらゆる人類の問題の解決には、民主主義的な組織の運営が不可欠である。
原発に反対するなら自民党でも誰でもよいという考えは間違っているのである。
民主主義であれば必ず反原発・反戦になるとは限らないが、民主主義に反する組織の運営や連中は、必ず原発推進となり戦争推進となる。
そして反民主主義は危機管理の際に決定的な弱点を露呈し、破滅的結果を招来する。

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2017年12月23日 (土)

不可解な社説

News & Letters/612
高知新聞本年12月22日朝刊の社説で「MOX燃料高騰」について論評があった。
不可解な点がいくつかある。
1、「原発政策の矛盾の象徴だ」という見出しが出ているが、どういう矛盾かはっきりしない。
MOX燃料の高騰が原発政策の何に矛盾するのか。例えば原発は他の発電よりも安価だからという政策選択と矛盾するというのら分かるが、その指摘は全然ない。その場合燃料が5倍になれば発電コストはどうなるか書かねばならない。高新のいうのは、核リサイクルを続ける限り高いMOX燃料を使い続けねばならない、ということだ。
それは矛盾というより他の発電よりも格安だという原発稼働の一つのよりどころが燃料の点からも破綻しているいうことであろう。
高新:「問題は、核燃サイクルを続ける以上、高騰するMOX燃料を調達するしかないことだ。」
しかし、それは外国から購入している現状ではいえるが六ケ所村の再処理工場が完成し稼働し始めれば核燃サイクルは表面上何も矛盾を持たなくなる。矛盾なのは、プルサーマルしか行き場のないプルトニウムであり、先日高新に談話が載った元立命館大の大島教授が指摘する通り、保有するプルトニウムを消費して減量するためにそのプルトニウムを消費する以上にそれを多量に産出する行為を推し進めているという点であろう。
それが表面的な矛盾であるが、プルトニウム保有・量産体制は他にもっと大きな合目的な恐るべき計画がある。すなわち原爆開発の原料の確保である。
真実の矛盾は、平和利用の原発が、どこの国よりもなお日本では、現代戦争の最高の武器の生産工場になっているという点である。
2、高新:「もう一つは、たまっている使用済み核燃料の行方だ。日本は高レベル放射性廃棄物(核のゴミ)の最終処分場も先送りしてきた。」
  「サイクル政策をやめれば、処分をめぐる問題が一気に浮上しかねない。」という。
使用済み核燃料の行方は決まっている。六ケ所村の再処理工場であり、それまでは各原発の敷地内のプールに貯蔵することだ。
高レベル放射性廃棄物は使用済み核燃料の再処理によって出てくるものである。サイクル政策があって初めて高レベル放射性廃棄物の最終処分場が問題になる。しかし、日本の高速炉が破綻しサイクルが破綻しようがうまく回ろうが、日本で再処理しようが外国でそれをしようがMOX燃料を原料にする限り
再処理を前提にしているのであって、高レベルの核廃棄物の処分場問題は切迫した問題としてすでに現実問題なのである。
高新の社説は、混乱し、今日の核の問題の核心と現実をそらすかのような論調である。
ただし、高新が言う通り、核リサイクルを止めれば使用済みのウラン燃料やMOX燃料の処分問題、再処理をせず直接地下に埋設するという問題が出てくる。
すなわち、これまでの再処理によってできた高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)と原発から直接出てきた使用済み核燃料を別々にか、または一緒にか地下に埋設するという問題である。
しかし、今では、これも建前にすぎない。政府や電力会社など原発推進勢力にとってはむづかしい問題ではない。
六ケ所村と各原発サイトにそれら廃棄物をそのまま放置させる計画であろう。
東洋町の騒動以降日本のどこかの市町村が、核廃棄物を受け入れようと手を挙げるところは皆無となり地下埋設は看板(法律)だけになった。
政府やNUMOが処分場をどこにすえるか模索している恰好をしているが、ほとんどこれはアリバイ工作に等しいものだ。
本音は、全国の原発サイト及び周辺に地上での中間貯蔵施設をどんどん建設していく算段をしていると考えられる。
もとより日本列島では地下埋設をするところはありえないが、ここにも建前(法律)と現実の大きな矛盾がある。
 
こうして核爆弾の材料プルトニウムとプルトニウムを含む高レベル放射性廃棄物がどんどんこの狭い火山や地震で絶えずゆすぶられている列島に累積していく。
せいぜい一世代か二世代の幸福のために、その世代から末代までの人間が苦しみの種を抱え続けることこそ最大の矛盾なのである。

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2017年12月20日 (水)

続「ふしぎな部落問題」

News & Letters/611

角岡伸彦氏の「ふしぎな部落問題」で現在の差別の状況と解放運動の実態がよく分かった。
ただ氏の部落問題の認識には大きな限界を感ずる。

それは部落問題が、人々の差別意識によって形成され温存されたという考えである。

1、「誤解を恐れずに言えば、被差別部落や部落民は、あってはならない存在である。
一義的には、差別があるから残った。差別がなければ存在しなかった。・・・
他のマイノリティは、あってはならない存在では必ずしもない。あってしかるべき、あるいは一定の割合で存在する。」

被差別部落や部落民そのものがあってはならない存在だ、というのは誤解を呼ぶであろう。
在ってはならないのはその部落に対する偏見や差別意識であって、部落そのものは消すことはできない。

2、多くの部落民が被害を被った「賤民」解放令に反対する農民一揆について語ったのち、氏は言う、「このようにして、差別する人々が、自分たちと区別(差別)した結果、部落民が残ったのである。」

「明治政府によって,賤民制は廃止された。ところが人々の意識は変わらず、あってはならない「特殊部落」がのこった。周辺の身分意識、差別意識がそれを残存させたのである。」氏の意識には差別制度を作り維持してきた権力が抜けている。人々の意識は、制度やそれを作った権力によって二次的に作られるものだ。

もちろんつくられたその意識が、制度という下部構造を強化したり下部構造の基盤が崩れても自律的に生き続ける場合もある。
上部構造たる意識の自立性を見ないのは現実的ではないが、原因と結果をしっかり認識することは角岡氏のようなインテリゲンチャのいろはだ。

3、さらに氏は言う、
「差別が部落を残存させ、反差別運動もまた部落を残すことを選んだ。」
解放運動は、えたであることを誇りに思い自分たちが部落民であることを堂々と主張した。だから、部落を肯定し自分達の拠点とした。

解放運動でなくても、私たちにとって部落は故郷であり、親やきょうだい、親戚や知己が住むところである。周囲の差別があろうがなかろうがそれが何より大切な場だ。
近代社会では部落問題、差別問題はあってはならないが、封建時代であれ近代であれ部落や部落民は自己主張する存在である。

そもそも部落民の発生には諸説があるが、私は江戸中期の土佐の南学の中興の祖と言われた谷秦山の説が最も真実に近いと考えている。
秦山は、穢多の先祖を奥州俘囚即ち蝦夷(えみし)の子孫であり、同じ日本民族だという。毛皮を扱うなどは古い日本民族の習俗であって何も異族ではない、と喝破した。中世大和朝廷は幾たびも東北地方を侵略しそのたびに東北の民を「俘囚」としてこれを拉致し全国各地に配布した。

「俘囚」の配布された全国の国々は続日本紀に詳しく記載されている。そして各地の「俘囚」たちはいたるところで反乱や騒動をおこしたことが記されている。
鎌倉時代のころ、朝廷は今から「俘囚」という名前を歴史書に使わないと宣言した。
そのころより、「俘囚」に代わって穢多とか非人とか河原者とかいう「賤民」が歴史書に登場しだすのである。

もし、秦山が言う通り「奥州俘囚」が部落民の先祖であるなら、これは明らかに征服・被征服の関係で出来した古代日本の階級闘争の結果であり、部落問題は、階級支配の刻印を持っている。部落民は奥州の蝦夷(えみし)の血を引く人間集団であって、差別はされても決してもともと差別されるべき存在ではない。

戦後、ある有名な人類学者が日本人の形態的特徴について調査した。それによると、日本人は西と東に分かれ西は朝鮮系、東はアイヌの特徴を持つと分類された。
その時特に部落民(京都)の調査もした。その結果がある学術雑誌に発表された。

それによると京都という朝鮮系の支配的な人類学的特徴のなかで、まるで「孤島」のように被差別部落は「アイヌ系」の特徴を持っていたと報告されたのである。

私の部落にもアイヌ・ユーカラに出てくる言葉が多く残っている。例えばユーカラにしょっちゅう出てくる いたく (英語でSAY 言う)という言葉は言語学者の説では
日本語には残っていないという。だが、私の部落では、年配の人は知っているし時々使ってもいる。

私も、母も血液型などからその人類学者の分類でいえば「アイヌ系」=えみし系であろう。
私の沢山という苗字も蝦夷の共同集落の特徴を表現しているようだ。東北地方には、敵から防御のため周囲が沢に囲まれた山の上に集落遺跡がいくつも残されているという。
日本のブルジョワ革命では、部落差別は解消できなかった。それは日本資本主義の帝国主義段階の特殊的発展の結果だ。

部落は階級闘争、(征服・被征服)の中で生まれそれ故に差別抑圧されて存在してきた。古代蝦夷の英雄(「古代蝦夷の英雄時代」工藤雅樹著)たちのように部落民は自己を誇り、自己を主張し差別抑圧するものと闘って生きる。階級支配が廃止され世代が交替していけば必ず部落差別は解消するだろう。それでも部落そのもの部落民そのものは残る。残らねばならない。

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2017年12月19日 (火)

高校友の会

News & Letters/610
角岡伸彦の「ふしぎな部落問題」という本を読んでみた。
週刊朝日や新潮社などが大阪市長だった橋下氏の出自(部落民)を明らかにし
それと橋下氏の政治手法とを結びつける差別キャンペーンについて厳しく批判していた。
これについて解放運動側がほとんど何の反応も示さなかった事実。
また、屠場を描いた記録映画について解放運動側がこれの上映に否定的でつぶしてしまったことについてその考えが、旧来の寝た子を起こすな、差別の実態を隠せという方向で動いていた事実が厳しく追及されている。
そして箕面の部落の解放運動が市民に向かって新し取り組みをしていることが興味深く記述されていた。
その中で、「高校(生)友の会」のことも触れられていた。
その箕面の部落でも高校友の会の青年たちが、守旧的な年寄りを乗り越えて革新的な解放運動を推し進めたという。
まさにその高校友の会は、私が大学を出てすぐ解放同盟大阪府連の書記として大阪府下50数部落を歩いて組織した最初の成果だった。
高校友の会の名称もその規約も私が発案し作成した。「大学友の会」も同時期に作り私が会長になったが人が集まらずあまりうまくいかなかった。
泉南や能勢の方では解放同盟未組織の部落もかなりあった。能勢のいくつかの部落では夕方バスがなくて雪がちらちらする中を歩いて山を越えたこともあった。同和奨学資金を受けている高校生の名簿を頼りに一軒一軒訪ねて村の集会所に彼ら及び親たちを集めて
部落問題を話した。高校生らにとっては、衝撃的であっただろう。その学習会合で自分が被差別部落の人間であることを初めて知った者も多くいたかもしれない。私は、彼らに、差別は必ず受ける。受けていないと思っても周囲のものは知っている。結婚や就職のとき突然それは我々に襲い掛かってくる。差別から逃げず、みんなが団結してこれと戦って生きていこう。
部落で生まれたことを悲しんだり恥ずかしいと思うのではなく、むしろ部落で生まれ育ったことを自分の原点とし、これを誇りに思って、間違ったこの世を変革して差別のない社会を建設しよう、と熱っぽく語った。
何せ当時の私は恐れを知らぬ革命戦士のつもりで生きていたのであるから私の熱風に感受性の強い高校生は奮い立ったであろう。
私が住んでいた矢田を中心に、住吉、浪速などの大阪府下の部落高校生が澎湃と立ち上がった。高校友の会は全国に広がったようだ。
府下の高校友の会の集会などでは府連から派遣された執行委員の講演内容がおかしい、融和的であるといって友の会の活動家が演壇上のその男を大勢で取り囲んで「糾弾」
したこともあり後で府連執行委員会(私は書記として出席していた)で私が扇動したのではないかと批判されたこともあった。
その当時のNHKの教育番組テレビでも取り上げられ「部落高校生は語る」という題で数回繰り返し放送された。当時の友の会の活発な活動が見て取れる。
その番組で私は司会をしていて発言していないが、NHKに対する高校生の厳しい発言はすべて割愛されていた。
数年して私は切迫する狭山事件を全国的に発展させるため解放同盟を脱藩したのでその後の各支部の高校友の会がどうなったかわからなくなったが、狭山闘争に多くの部落高校生が参加したことは間違いない。各地区で高校友の会が新しい運動の中核となって行ったことは間違いないだろう。
角岡氏の記述では箕面の部落でも高校友の会のメンバーが支部の中心をになっていったことがかかれている。
今や、解放運動はその当時の面影もない。屠場の記録映画をつぶしてしまう、部落の出自を週刊誌で暴かれても何らの大衆的な糾弾闘争も起こらない。
ヘイトスピーチが蔓延する現在の世情は部落解放運動の低迷が大きな原因であると私は思っている。
高校友の会とは違って、大学友の会は成功しなかったが、ただし大事な人物二人に会い二人を親友として革命的な解放運動を進めることができた。
一人は国守の住職斎藤君であり、もう一人は荒本の中西君である。のちにこの二人の縁で国守と荒本の部落が私の解放運動の拠点となった。
 
角岡氏の部落問題の捉え方には私のほうに異議がある。次回に続く

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2017年12月16日 (土)

広島高裁判決

News & Letters/609
12月13日、広島から画期的なニュースが全国を駆け巡った。
高裁段階で伊方原発差し止めの判決が出たのである。
圧倒的に多い敗訴判決に大きな風穴があいた感じだ。
だが、福井や大津の勝訴判決と違って、地震ではなく火山だった。
これまでの勝訴の判旨とは何か根本的に相違するところがある。
阿蘇山の火山の大爆発は火砕流で九州を全滅させ四国、中国地方にまで
迫ってくる。原発が危ないことは明らかである。
地震や津波とそれによる原発の被災では、地震による被害はいかに甚大であっても
回復可能であるが、それが原発被災というより甚大で深刻な回復不能な事態を引き起こす。
しかし火山の場合は、9万年に一度という大爆発では、九州全島が壊滅しそのなかで
川内や玄海、伊方の原発もやられる。全島が火砕流で覆われる惨状ならば、原発・放射能どころではないだろう。
広島高裁判決では中央構造線の地震による原発の被災については規制委の安全判断が合理的だという。
9万年の火砕流も恐ろしいが、千年間隔で起こる大地震の方が切迫している。
何かしらこの高裁判断にはバランス感覚がおかしい。
そして何より人道的な筋が抜けている。
しかし、いづれにしろ勝訴は勝訴であり、弁護団・住民の永年の苦心が報われた。
良心の呵責に耐えかねた裁判官の捨て身の勇断を最高裁はどう見るだろうか。

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2017年11月26日 (日)

従軍慰安婦像の建設

News & Letters/608
サンフランシスコの議会や市長が、いわゆる従軍慰安婦の像を受け入れたことについて
維新の党の大阪市長らがご立腹で、友好都市の関係も断絶するといきまいている。
私はこの連中の考えが全く理解できない。
第一に、朝鮮や中国など日本軍の餌食になった女性が多数いたということは歴史的事実であり、日本政府もそれを認め償いの金も出している。少々のお金を出したからといって女性凌辱の罪が消えるわけはない。
この屈辱的な歴史的事実について朝鮮の人民が恥を忍んでこれを追悼し記念するのは当然のことであり日本軍への癒されぬ怨恨を世界に、特に日本人に対してアピールするのは自然なことだ。
日本人、特に政治家はこの慰安婦像の前で跪き許しを請う必要があり、それは永続的に続けられべきだ。
かつて、70年代にドイツのプラント首相は、ワルシャワのゲットーでユダヤ人犠牲者追悼碑の前に跪いた。
そこまで覚悟できないとしても、少なくとも日本の政治家は、他国の国民の感情の自由な発露について文句を言う何の権利もない
ということを自覚するべきであろう。言論は自由なのだ。
第二に、なぜ大阪市長や維新の会=自民党どもが、この慰安婦像が世界各地に建設されるのが嫌なのか、理解できない。
従軍慰安婦について、恥を感じているというのは評価すべきだ。しかし、恥をすすぐ方向と姿勢が間違っている。
自らが犯した恥の原因である従軍慰安婦の事実を抹消し、隠蔽する努力、従軍慰安婦像を建設したりそれを支持する人々に対して怒りのこぶしを振り上げる姿は、人間の姿としては最もいびつで下劣なものだ。このほうが良心のかけらもない国辱というべきである。
犯罪者は現場検証で犯行現場に連れられて行くのを恐れるが、連行する官憲に腹を立てたり、嫌がって大騒ぎなどはしない。
ナチスドイツのユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)についてドイツの政治家や国民は、これを忘れないために自ら様々な記念碑や記録を残す努力をしてきた。
1985年ドイツの大統領(ヴァイツゼッカー)は、次のような有名な演説したという。
 
「罪の有無、老幼いづれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばなりません。
誰もが過去からの帰結に関わりあっており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつけることが何故かくも重要なのかを理解するため、老幼互いに助け合わねばなりません。
また助け合えるものであります。問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。
後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。・・・」
 
過去に間違いを犯したことは悔やんでも仕方がない。問題はそれを直視し、その事実と教訓を永続的に反省し現在と未来に生かすことだ。
憲法9条は、従軍慰安婦や日本による侵略戦争の犠牲者への、誓言であり罪障の証だ。
日本政府は、非難ではなく、世界各国での従軍慰安婦の少女像の建設については予算を組んでこれを援助すべきだ。

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2017年11月24日 (金)

封建遺制か相撲部屋

News & Letters/607
少年時代には大好きだった大相撲だが、青年時代はほとんど関心がなかった。
だから若乃花、栃錦、千代の山、三根山、琴が浜などはよく知っていたが、それから最近まで相撲の力士のことはあまり知らない。ところが最近相撲が楽しみになってしまった。
その中で日馬富士の暴行事件が出てきて、興ざめがしている。
問題は、暴行はもちろん悪いが、この処置の方法が理解できない。
第一に本人達が表面に出ず、「親方」が本人の代わりに大活躍というのが解せない。
本人たちは立派な成人の力士なのだから、親方は付き添っているぐらいにして引っ込むべきではないか。
第二に、相撲協会は団体であるから自治能力があるはずだが、全く組織を統括できるようでない。
警察に被害届を出したり裁判に訴えることはもちろん自由であるが、それ以上に組織の自律的な措置が必要である。自己の組織で起こった事件を権力に任せるというのは、慎重でなければならない。
大学でも労働組合でもスポーツ団体でも権力の介入を呼ぶのは、最後の手段でなければならないだろう。
今回殴打事件では、本人でも親方でも、または相撲協会であっても、傷害事件である限り警察に届けるのは筋である。
しかし、それ以上に相撲協会自身が、組織として対処するのは当然であり、それが不能であるとなればそれを阻む
者を処罰の対象としなければなるまい。警察は刑事罰の有無を追求するが、相撲の団体は、独自の処罰のほかに、力士の身分、規律の在り方、国民への説明など独自の任務がある。
第三に、伝統的な部屋制度が問題である。相撲は団体競技ではない。野球やサッカーなどのようにチームが争うのではない。
個人競技であるから、部屋制は必ずしも必要ではない。練習場を相撲協会が用意すればよい。力士の食生活や日常の起居も個人に任せるか、相撲協会が共同の宿舎を用意すればよい。
親方・部屋制度が、封建的で陰湿なにおいの発生源、相撲世界の絶え間ない不祥事の温床なのではないか。親方・部屋制度には郷愁もあるが、しょせん封建の遺制、日本で唯一残る徒弟制としての封建遺制ではないか。
上位の力士は待遇も恵まれているが、下っ端には給料もろくになく、部屋でかいごろし、徒弟制度のもとに苦吟しているのではないか。
親方・部屋制度を存続させなくては大相撲が存続できないということはあり得ないだろう。
被害者の本人はそっちのけ(どっかに隔離か)、相撲協会は事件の解明もできない、当事者が国民に説明もしない・・・。
今日こんな団体が日本社会に存続できるだろうか。
 
私は、今回の不祥事を契機に、スポーツマンとしての力士の自立、親方・部屋制の解体、人権の明らかな新しい近代相撲の再建を願うものである。

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2017年11月23日 (木)

菅家後集

News & Letters/606
昨日公表した新火葬場をめぐる5000万円余の詐欺(背任)事件の
私の監査請求については、中川博嗣市代表監査委員らによってにべもなく却下された。
まともな連中ではない。
こういうたぐいの人間は昔も今も変わらないようだ。
 
菅原道真の「菅家後集」という漢詩集の中に
「哭奥州藤使君」というのがある。奥州で死んだ友人(藤原滋実)を道真が大宰府の配所で追悼したものだ。
その中で、当時の朝廷の官吏の腐敗(東北の民蝦夷から苛斂誅求しその財貨で買官するなど)を暴きこれに切歯扼腕している様子が表現されている。抜き書きしてみる。
僚属 銅臭多 人を鑠して骨髄を煎る
財貨に卑しい同僚は貪欲の炎で身を焼き溶かし、骨髄までも煎り焦がす)
兼金、又重裘 鷹馬相共に市う、市得於何處 多は是邊鄙に出 
(黄金や、皮衣、鷹や馬を買うが、これはいづれのところで買うのか、多くはこれ東北の辺鄙から)
  ・・・ 
  ・・・
價直は甚しく蚩眩・・・・古へ自り 夷民の變 交關に不軌を成す
(値段は蝦夷を馬鹿にしてだまし甚だしく安くたたく いにしへより蝦夷の反乱は、交易の不平等から起こった)
 ・・・・・
・・・兼贏如意指(利益を増すことは意のまま)惣領走京都(すべてを京都に持ち帰り) 豫前顔色喜(役人を喜ばし)便是買官者(官を買うのだ) 秩不知年幾(年収はいくらか計り知れず) ・・・公堂偸眼視(公で人目を盗んで合図仕合い)
欲酬他日費(他日報いることを望み) 求利失綱紀(こうして利権を求めて綱紀を踏みにじる)
官長有剛腸(剛直な上司がおれば) 不能不切歯(切歯扼腕を抑えられないだろう)
定應明糾察(定めてまさに明らかに糾察し) 屈彼無廉耻(かの廉恥無き者を屈すべし) ・・・
蝦夷からかすめ取った財貨を京都に持って帰りそれで朝廷の悪と示し合わし官を売買し贈賄行為を盛んにする。もし剛直な上官がおれば切歯扼腕し、定めて應に明に糾察して 彼の廉恥無き者を屈すべし
 
  「菅家後集」は室戸市民図書館にも飾ってある。

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