2018年4月20日 (金)

女性記者の告発

News & Letters/628
財務次官への取材中に次官から受けたセクハラの事実を他社の週刊誌に漏らしたのは
不適切だ、と所属社の幹部が被害女性記者を非難した。なんだこれは。
第一に、女性記者がそうせざるを得ない環境に置いていたその会社の在り方が問われるべきだ。
第二に、セクハラの受難は犯罪の被害だ。取材中であっても刑事犯の被害にあった場合は
被害者は告発する権利がある。それはもはや業務の枠、会社の規則の枠の次元を超えている。
業務中に首を絞められ殺されかかったらどうする?どういう手段を講じても防衛し助けを求めるのは当然のことで会社のルールは及ばない。基本的人権を守るというのは自然法の世界の話で、会社の規則どころか法令の枠を超えた人間の根源的な行為である。特に性の問題は人間の生命現象でその拒絶反応も生命現象的人権である。
取材源の秘匿とか経営上の利得などで論ずべきものではない。

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2018年4月19日 (木)

中岡慎太郎

News & Letters/627
現在坂本龍馬とは違って中岡慎太郎の評価が低く大河ドラマで主人公になったこともない。
中岡は坂本龍馬の付属のようだ。
高知駅の三人(坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎)の維新に尽くした人物の銅像についての説明でも薩長同盟の締結の功績は坂本龍馬にあり、中岡は陸援隊長だったという程度の紹介だ。
だが、史実は違う。また維新当時の人の評価でも、中岡慎太郎の実績と評価は龍馬どころではない。
薩長同盟、薩土同盟、そして宮廷の三条実美と岩倉具視との提携を実際に工作し実現したのは慎太郎の方だ。慎太郎は長州藩の久坂玄随や高杉晋作、桂小五郎らと肩を並べて倒幕運動にまい進し西郷ら薩摩の討幕派と親交を持った。維新直後、中岡が生きておれば西郷隆盛、木戸孝允らに引けを取らない維新の元勲になったことは間違いないと評価するものもいた。
長州藩の諸隊のリーダーとして実際にいくつもの戦闘に参加し、都落ちした五卿を護衛し、
京阪神から九州にかけて周旋・情報収集に奔走した中岡にくらべ、幕臣勝麟太郎の弟子でしかなかった龍馬など慎太郎の足元にも及ばない。確かに龍馬は京都での薩長同盟の盟約の折立会人としてその場に臨席したが、薩摩・長州に同盟をさせるお膳立ては主として中岡の功績であり、当時長州の村田蔵六(後の大村益次郎)が中岡の薩長同盟達成の功績を「宇宙の輝き」だと讃えたほどだ。
薩長同盟は、直接的には幕府の征長戦で滅亡の危機にあえぐ長州藩の窮地を救ったのであるが、それだけでなく、幕府を武力で打倒し、新しい日本を建設する政治勢力を創出することになったのである。
薩長同盟は、中岡の功績だと天才的な戦略家で日本陸軍の父として大阪の護国神社に祭られている大村益次郎が書いた。その証言に後代の誰が反論できるであろうか。
中岡は北川村の庄屋の息子だ。その家は、土佐の天保庄屋同盟の一拠点であった。
天保の秘密庄屋同盟こそ土佐勤皇党の底流にあり、その思想は天皇を頂点としているが、自分らを、武士の中間項を払いのけて直接天皇に直属する存在だと想念した。封建領主をはじめ武士支配を打破する革命思想だ。
中岡慎太郎を主役にし、龍馬らをわき役にした大河ドラマがつくられるべきであろう。
今も昔も、中岡慎太郎の武力討幕の方針は正しい。
少年時代から室戸岬の銅像を仰いで星雲の気を養ってきた私にとって中岡慎太郎の低い評価には我慢がならない。

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2018年4月 6日 (金)

情報隠蔽?

News & Letters/626
陸自のイラク戦地日報問題は情報隠蔽というべきであろうか。むろんそれもある。だが、
戦地からの報告書を大臣はもとより自衛隊の幹部ですらも目を通していない、ということが問題なのではないか。
戦地に派遣した軍隊の日日の戦闘記録を幕僚や将官が見ようとしない、そんな軍隊があるだろうか。
戦闘員が記録した日報が行方不明になっていた、隠していた、などというようなことで騒ぐというのが理解不能だ。
普通の会社でもこんなことは起こらない。例えば海外などに営業に出した社員の報告は今か今かと首を長くして待つのが会社の役員の普通の姿だ。現地からの報告で一喜一憂する。現地からのその報告書は宝であり、会社や組織の生命線のはずだ。
イラクやスーダンからの報告書は、誰よりも最高級の将官や文民たる大臣の手元で共有されていなければならなかった。
大臣が日報を探索するよう部下に指示した、などと自慢げに答弁する姿は余りにも愚かで笑うこともできない。
日本の軍隊、日本の官僚組織は自己の職務より何か別のことで夢中になることがあるのではないか。
現地の状況に無関心で、それで作戦を立てて戦争を始め戦争を続行する、そういう軍隊がさきの旧軍隊の姿だ。
現地の状況を知れば、無謀な戦争はできない。他国の民衆の激しい抵抗があり、その現実の報告があってもその報告を無視し、己の野望と図上作戦で侵略戦争を拡大しアジアの民衆を殺し祖国を敗亡に追いやった。
その一丁目一番地が現地からの報告の無視である。
行方不明になっているのは、戦地の状況を何よりも重視する軍人としての感性であり、
また、高級軍人や「文官」たちの職務専念の観念だ。

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2018年3月28日 (水)

絶望

News & Letters/625
森友事件で決裁文書の書き換えが行われていたことを政府が認めた。
安倍自民党政府は憲法の改正ももくろんでいる。
しかし、幾ら憲法を飾っても公文書をいくらでも改ざんするのだから意味がない。
文書を改ざんし、現実にあったことを隠す政府を信頼する根拠がないから、仮にいい憲法だといってもそれを尊重してくれるという保証はないことになる。
戦争中はともかく明治以来これほど権力の正体をあらわに示す事件は余りないだろう。
今日の森友事件をめぐる状況は、資本家階級の支配では、まともな法治など全く期待できないということが国民みんなが分かったということだ。
佐川の証人喚問を見て、絶望 という衝撃が日本の政治に広がり、国民の胸に広がった。
政治家がいかに腐敗してもそのもとにある官僚や役人はそれほど悪くはない、と信じてきた国民は多い。しかし、役人も政治家と結託して国民をだますために文書改ざんまでやるという姿を見て国民の絶望感は深い。
しかし、絶望は深ければ深いほどその反発力は威力を増す。
それが失恋からであれ、事業の失敗からであれ、そして今回の森友事件の佐川や安倍の顔からであれ、絶望は革命的な熱情を生みだす。レ・ミゼラブルのジャンバルジャンが最後にパリの内乱のバリケードに走って参加したのも、大切に育てた女性が他の青年にとられたという 絶望 からだった。
 
この政府は基本的には民衆の実力(武装闘争からデモ・集会・選挙戦を含む)で打倒しなければ根本的にはよくならない。そのことは沖縄の基地問題でも原発問題でも同じである。
プロレタリアが権力を奪取しないまでも、圧倒的多数の民衆の実力闘争が発展しなければ権力は変わらない。

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2018年3月22日 (木)

裁判闘争での敗北

News & Letters/624
函館地裁の大間原発差し止め裁判、佐賀地裁玄海原発3,4号機差し止め裁判が相次いで敗訴。
国策をめぐる事案で裁判で争って勝つのは至難の業である。
それは、事実や法令をもとに利害をめぐっての争いではなく権力を相手にする政治裁判であるからである。
裁判官の圧倒的多数は権力の側にその意識を保って生活し仕事をしている。
住民訴訟を含む行政訴訟で勝つのは至難の業である。
だから反原発運動では裁判闘争での勝利を最終的勝利目標にしてはならない。
原発を止めさせるのは権力の構成を変革することによるから、選挙も含む大衆的な政治闘争によって決着をつけることである。裁判闘争はその政治闘争の中に位置づけられる。
すなわち、政治闘争を活性化させ、敵の姿を鮮明にし、我々の政治目標がいかに正しいかを明らかにすること、そのことによって大衆的政治闘争の大義を鮮明にし闘争を活性化させる、そのために裁判闘争をするということである。
選挙戦を含む大衆闘争の発展のなかで裁判所の姿勢も変わる。裁判闘争至上主義に陥り、原発のある市町村への大衆的な扇動工作、選挙戦など政治闘争を主体にした反原発闘争の原則を忘れてはならない。
東洋町での経験では、一個の裁判闘争もせず、もっぱら署名活動や宣伝活動、そして選挙戦で決着をつけたのである。裁判闘争で勝てばよし、負けても裁判で明らかになった事実をもとに大衆運動の発展の足場を築きあげねばならない。原発東京都問題は政治決着だということを肝に銘ぜねばならない。
現地の議員選挙、首長選挙に登場することは当然の戦術である。
玄海町議選では永く保っていた反原発1議席も失うようでは、あるいはそれを受け継ぐために立候補の一人も出さなかったでは、その運動の本気度が問われよう。
政治闘争で無力なのに、さなきだに難しい裁判闘争で勝てるわけがない。
このままでは福島のように取り返しのつかない大事故が起こってから初めて原発の恐ろしさが分かった、ということになりかねない。

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教育に関する国の法律

News & Letters/623
前川善文科省事務次官の中学校での講演内容に干渉した文科省は依然として法令に従ってやったと主張している。
既に論じたように、国の法律「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によれば、文科省は、教育委員会や学校に対して直接指導したり助言したりすることはできない。文科省ができるのは都道府県知事や市町村の首長に対してである。
また、都道府県教委も市町村の教委に対して指導や助言はできない。県教委ができるのは市町村の首長に対してである。
1、前掲法律の第48条第1項の規定では
①文科省⇒知事及び市町村長   
②都道府県教委⇒市町村長となっている。
 
決して文科省⇒教育委員会 とはなっていない。そして国は、知事や市町村長を通じて教育内容に介入できない。
知事や市町村長の権限は教育の環境整備や予算などに直接関与できるが、教育内容に関与することはできないからである。
2、また、上の法律は、その指導や助言、援助ができる内容は、教育内容ではなく「都道府県又は市町村の教育に関する事務」なのである。授業の内容や教員の性質や能力などに干渉することは論外なのである。
そして、上の法律第2項には、その「教育に関する事務」について誤解がないように具体的事例を11項挙げている。
教育内容について指導や調査などをしていいという事例は何もない。
国の法律は二重に国による教育内容への介入を禁止しているのである。
 
ところで今日の高知新聞(平成30年3月21日朝刊)の記事によると
県議会で教育長の人事が決議(決定)された、という記事があった。
しかし、知事や県議会が直接教育長を決めることはできない。知事は教育委員を議会の承認を得て任命することができるが、教育長は前掲法律第16条第2項の規定により「教育委員会が任命する」ことになっている。
教育委員会は任命された教育委員によって何らかの方法、たいていは互選によって教育長を決めるのである。
知事や議会が教育長を決めたのであれば、それは違法であり無効となる。
行政や議会は法令に基づき事務を処理しなければならない。森友学園のように権力の意向が行政事務の法規となってはならない。

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2018年3月17日 (土)

文部省の越権行為

News & Letters/622
文部省が前次官の前川氏の名古屋市立中学校での講演に調査を入れてきた。
権力の教育現場への介入は厳しく禁止されている。
教壇の上では教師は無冠の帝王であって、自己の思想と良心に基づき、又研鑽してきた学問に基づき子供たちを教育するもので、いかなる権力によってもこれを曲げられてはならない。
それは、憲法第19条(思想・良心の自由) 第23条(学問の自由)によって保障され、また教育基本法第16条では「不当な支配」に服してはならないことがうたわれている。
今回の不当介入事件について文科省は、法令によりしたことで問題ないという反論をしているがとんでもないことだ。
文科省が依拠する法律「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第48条では確かに文科省大臣が都道府県や市町村に対し指導したり助言したり援助したりすることができると規定されている。しかしそれは第一に、「教育に関する事務の処理」につてであって、教育や授業の内容ではない。その証拠にこの法律の文言を見ればわかる。
政府が指導したり助言する相手は教育委員会や学校ではなく「都道府県」や「市町村」なのである。都道府県や市町村は施設など教育環境や予算を整備するのが任務であって教育内容まで関わることはできない。環境の整備のほかに地方公共団体の首長が教育についてできることはその土地の全般的な教育方針の策定とか特定の教材について予算を出すとか出さないとかという程度のことにすぎない。また前記憲法の趣旨から首長はもとより教育委員会といえども教師の授業内容についてまで介入する権限はない。
文科省作成の学習指導要領は一応の教育内容の目安にはなるが、教師に強制するものではない。
また、都道府県教育委員会は市町村(長)に対し、上記法律第48条の指導や助言はできるが、法令違反がない限りみだりに市町村長の行政に介入すべきでない。
かつて私が東洋町長であったとき一定期間教育長の不在が続いたことがあった。それにつき県教委は私に対して早く教育長不在状態を解消するように「指導」があった。
私のできることは、議会に対して教育委員の選任の議案を提起することであって、議会が理由もなく否決を続ける以上、教育長不在が続くのはやむを得ないだろう。
それで、法令に基づき町教委は教育長不在の時の措置の規定(前掲地教法第20条2)に従って町教委の職員である教育次長が教育長の任務を遂行していた。
首長は議会の同意にもとづき教育委員を任命できるが、教育長を任命する権限はない。教育長は教育員会が互選して決めるのである。
法令に基づき適法な措置を取っている町教委や首長に対して県教委が不当介入した事件だ。
権力はその権限を行使する場合常に法令を正確に読んで権力ができることとできないことをはっきり認識してとりかかることだ。
それはともかく安倍や菅や麻生などごろつき連中、それを忖度する官僚らが学問や教育内容について人並みにものをいうのは笑止千万なことだ。

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2018年3月14日 (水)

公文書改ざんと自殺

News & Letters/621
今日では権力は情報を操作して民衆を支配する。知らさないで支配する封建時代と違って
情報をコントロールし隠ぺいはもとより虚偽の情報を出してまで権力を維持しようとする。
戦争中でも平時でもそうだ。
しかし、今回の事案は様子が違う。
私は地方行政ではあるが数多くの決裁文書を見てきた。
森友学園に関する財務省の発表された原本という決裁文書は少し異様である。
普通は、知られてはまずい情報ははじめから公文書には記載しない。
うさんくさい森友側との交渉記録の詳細や口利き議員の氏名、昭恵夫人の関与を示唆する記述(森友側の発言)までわざわざ書き込んだのは何のためか。
回答:財務省の担当官吏の自己保身のために、書くべきではない情報まで書き込んだ、と考えられる。
この事案が財務省の正規の手続きではないこと、政治案件であること、これを明確にするために起案文が書かれ、局長までがそれに押印し、後々の証にしようとしたものと考えられる。その行為は末端権力の、上級権力の理不尽な不正に対する抵抗であった。
担当官が自殺に追い込まれたのは、陰に陽にその責任が追及されたからであろう。
佐川前国税庁長官が詰め腹を切らされたのも公文書を改ざんしたからではない。
大規模な改ざんをせねばならない原本に押印したからである。
 
権力が情報を不正に扱うのを止めるのは、その権力が真に国民に奉仕しようとするものである場合だけである。情報の扱いによってその権力の性格がわかる。

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2018年2月20日 (火)

高知新聞「核廃迷走」 の続き

News & Letters/620
交付金の餌と放射能への無知を利用して応募地を募り、そこを即適地として最終処分場を建設するという目論見は東洋町で最終的にとん挫した。
そこで政府は、新たな手法として科学的有望地を選定し、上から国民の合意を「形成」するというやり方に転換した。
しかし、合意「形成」として金で学生を動員したりして努力しているがかえって国民の不信と反発を買ってなかなか進まない。
国民の最終処分場への合意形成、その前提となる「国民が決断を下す環境」(連載記事⑧)が整うのが大前提だが、高知新聞はその「環境」について何も語らない。まともな新聞社は少なくとも次の二つは言わなければなるまい。
すくなくとも、
第一に六ケ所村の再処理工場を止めることだ。使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出すという
工程からは元の燃料の何層倍(ある試算では少なくとも6倍)もの新たな核廃棄物が生まれる。
第二に原発の稼働をやめることだ。
これら二つの「環境」整備は核廃処分について国民合意の絶対的な条件である。
その二つ条件を満たしてもそれでもやはり国民の合意形成は超困難である。自分の住むところや近隣に核廃棄物が埋められるということを当事者として想定してみればすぐわかることだ。自分のところ以外のどっかを想定するからそれが実現できると思い込むのである。
そこで政府が以前から持ち出しているのが「中間貯蔵施設」での暫定保存である。
中間というのは
①原発と最終処分との中間という意味と
②原発と再処理工場までの中間という二つの意味がある。
②のコースは破綻しかかっている。問題は①のコースであるが、最終処分場の建設はほぼ絶望的であろうから、中間施設での管理を永続的に進めるという方策しか道はない。これは玄海町だけなく、原発があるところでは今の状況では容易に実現可能である。
すでに使用済み核燃料を原発施設内で中間貯蔵を行っているからである。
政府は最終処分場建設を模索しながら、実際には中間貯蔵施設への転換を推し進める。
埋め捨てをもくろむ地層処分の危険性よりも地上施設での管理はなお一層危険である。
原子炉のような何層ものバリャもなく、永久貯蔵のためのセキュリティも備えない中間施設をなし崩し的に長期貯蔵施設
⇒永久施設に転用する企みの欺瞞性は隠すことはできない。東洋町を経ていまや国民は容易に騙されない。
そして、最後に言わねばならない。
最終処分にしても中間貯蔵の永久化にしても国民の合計「形成」は容易ではない。
引き続きマスコミのフェイク宣伝の力を借りながら政府の最後の手段は、沖縄の辺野古基地建設強行の方式をとることである。
強権を発動して処分場の建設を強行しだすことは目に見えている。それはここ十年か二十年に迫っている。
その時に日本人民はどのような戦いをするのか、これまでのような法廷闘争や住民投票などの平和的な方式だけでは勝てないだろう。

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2018年2月18日 (日)

続 高知新聞「核廃迷走 東洋町から10年余」について

News & Letters/619
この連載の最後⑧に、国が主導する最終処分場の選定のための「科学的特性マップ」をもとにした国民への説明会を取り上げ、説明会へのやらせ動員のフェークが露呈した事を取り上げた。このような世論操作の例として九電のやらせメールもとりあげ核廃や原発稼働に対する「国民の不信感」、「不信続く処分事業」を強調する。
国や電力会社への国民の不信はそのとおりだが、それでは、高知新聞が東洋町の「騒動」前、その後の新聞広告でNUMOの核廃最終処分場(地層処分)の安全広告を繰り返したのは、どのように説明する。?
連載記事⑦で、日本学術会議の核廃問題についての提言を取り上げたが、その提言で日本列島では核廃問題を解決する地層処分は不可能だという最も核心的な疑問的提言を記事から没却したのは何故だ。
連載記事⑦で日本学術会議の提言で核廃の「暫定保管」を紹介しているがそれは、日本における核廃の最終処分としての地層処分に対する疑問を前提にしている。「長期に安定した地層が日本に存在するかどうかについて、科学的根拠の厳密な検証が必要である。日本は火山活動が活発な地域であるとともに活断層の存在など地層の安定性には不安要素がある。」(2012年9月12日日本学術会議(「回答 高レベル放射性廃棄物の処分について」)
地層処分の有益性を宣伝した新聞社が日本学術会議の核心的提言を隠そうとするのは自然なことだ。
国民の死活に係ることで、政府や電力会社のフェーク宣伝を紙面いっぱいにして広告費を稼ぐ新聞には倫理も正義も何もないのか。
東洋町の「騒動」のことも「表面化したのは2006年9月。」(連載記事④)という。それは確かに私が9月の室戸市議会で東洋町の核廃問題を質問通告したとき、それを契機にして高知新聞が取り上げたのが最初でそれから「騒動」は本格化した。
だが、高知新聞の室戸市局は、私が知る何か月も前から東洋町役場や議会の核廃への極秘の動きを知っていたが東洋町長との約束でそれを伏せていたという。新聞社の使命は、国民に対して一刻も早く真実を報道することだ。
敵側の体制が整うまで攻められる国民には情報を隠してもよいという姿勢が、報道機関の誠意であろうか。

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高知新聞 特集記事「核廃迷走 東洋町から10年余」について

News & Letters/618
 (論評1)            
高知新聞が最近高レベル放射性廃棄物の最終処分場をめぐる東洋町の騒動からこの十年余を総括する記事を連載した。
私は高知新聞を購読していないので全部は見ていない。
総括すること自体はいいことである。力作といいたいところだがどう見ても内容がうすっぺらで粗悪である。
おおざっぱに批評しても次の問題がある。
記事① 核廃問題で起こった東洋町での「騒動」の話をはぐらかしている。
現東洋町議会議長で当時核廃推進のリーダーだった西岡の話(「やらんでよかったと思う」)を載せそのきっかけが「やはり東京電力福島第1原発事故」という。
しかし、原発反対運動をした町民から何も取材せず推進派をのみ取材しその転向(改心)とそのきっかけとして福島の原発事故を挙げる。
高知新聞は何を言いたいのか不審を覚える。推進派の巨頭の一人だった男の変身の理由など問題外だろう。
東洋町の反対の「騒動」は東北大震災・福島原発事故の4年前に起こったのだ。なぜ原発とは縁もゆかりもなかった東洋町で猛烈な反対運動が沸き起こり町役場や政府の策謀が粉砕されたのか、この事実と経緯が第一の総括でなければならない。
福島原発事故を知らない町民が猛烈に立ち上がったのである。問題のすり替えも甚だしい。
記事②で九州の玄海町と東洋町との違いを論じる。
玄海町の状況、藤浦元共産党町議の発言(玄海町内で反対派の声が挙げづらい)を紹介し東洋町が町長選で住民がNOを突き付けた事例と比較して「核廃を意識した二つの町の違いは何か」と自問する。
記者の答え。玄海町の岸本町長の言(東洋町の場合は「反対派やマスコミに引きずられた結果」)やNUMO幹部の同様の発言を紹介し、「だが、07年の取材を思い返せば、この見方は一面的に映る。」として記者は「これまで東洋町を含む15以上の自治体で、候補地選定に向けた・・・・そのほとんどが原発とは無縁で、過疎にあえぐ小さな町村だ。それ故、「交付金を生かした振興のため」以外に、調査を受け入れる理由は説明しづらい。」という。
核廃問題が起こっても住民の反対運動が起こりづらいという玄海町と圧倒的な住民による反対運動が沸き起こった東洋町の違いは何ぞやと自問しておきながら
その回答として「調査を受け入れる理由」=「交付金」を挙げている。交付金は推進派の理由であり動機であって住民の反対運動の理由ではない。
この破たん調の論理の狙いは、意図するしないに関わらず核廃騒動が「交付金」をめぐって起こったかのような印象を読者に与える。
しかし、無論、東洋町の住民が起こした「騒動」は放射能への恐怖による本能的な拒絶感情からであり、お金の問題などではない。
高知新聞の今回の企画は核廃について東洋町住民の正しい戦いの歴史を矮小化しペテン的にすり替えようしていると言わざるを得ない。
 
核廃問題では、受け入れを表明した玄海町長は町内外の猛烈な抗議を受けて数日のうちに完全に撤回した。私は、玄海町に入って当時戸別にビラまきをしたが原発は別だが、住民の誰一人として核廃に賛同するものはいないと感じた。
原発の至近距離の唐津市民(串地区)の一部が受け入れに賛同する動きがあったがそれもすぐにつぶれた。
核廃については東洋町も玄海町もどこの住民も同じ感情であり、拒絶反応であることを記者は知るべきである。

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2018年2月13日 (火)

高知新聞2月10日記事「高知政経懇話会ノート」について

News & Letters/617
平昌五輪で南北朝鮮の対話が進んでいることを安倍はにがにがしく思っている。
とにかく東アジアにおいて最も危険な存在は北朝鮮よりも日本の安倍政権である。
安倍らは米国トランプが北朝鮮へ全面的に爆撃することを希っているのである。
高新が掲載した道下氏の論理にはこのことが全く分かっていない。
「敵基地攻撃能力」を日本が持つことも賛成だという。高知新聞の好戦的姿勢もこれで窺知できる。
東アジアの軍事的勢力図は、
①日韓にある米国の核兵器を持つ軍事基地及び太平洋の海上や海底をうごめくアメリカの艦船
②中国、ロシア、北朝鮮の核兵器を基軸にした軍事力
③そして米国と連携した日本の軍事力。
この①②③の勢力が東アジアの平和を望む人民の脅威なのである。
②の3国にはそれぞれ異なった思惑があり、独自の軍事的脅威を振るっている。
③の日本の脅威は安倍政権という突出した戦争推進勢力が表面で踊っているが、
その背後には三菱重工ら軍需産業が暗躍している。
原発関係の組織や企業の重要なトップには三菱の血脈が色濃く刻印されている。(詳しくは広瀬隆「私物国家日本の黒幕の系図」)
どんなに危険であろうと、どんなにコストがかかろうと、核兵器生産を狙う三菱などの
財閥系の死の商人が、原発、再処理工場の稼働を死守しようと血道をあげている。
日本の死の商人にはプルトニウムを確保することが至上命令なのだ。
日本の死の商人の暗躍とその代理人自民党と安倍政権の存続は、北朝鮮よりもなお東アジア人民の最大の脅威であろう。
日韓にある米軍基地、日韓の原発、これらを撤廃しないで北朝鮮だけの核とミサイルの撤廃をいうのは強盗的というべきだ。
東アジアのプロレタリア人民は①②③の軍事的脅威の全面的廃止を目指して戦うべきだ。
原発問題は、エネルギーの問題であり放射能の環境問題であるが、何よりも軍事問題であり反戦平和の問題である。

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2018年2月 7日 (水)

高知大学(高知医大病院)への質問状

News & Letters/616
高知大学医学部附属病院は数年前、その薬剤発注に関する契約等において澤山らの告発を受け会計検査院が入り込みその不法行為が弾劾され、国会にまで報告された。
だが、財務担当の理事が交替するや否や、またぞろ大きな権益事業(「アメニティ施設新設」)について異常な公募をしている。
これは官製談合の疑いがある。既に大手県外企業Hの名前が取りざたされている。
応募期間が1週間という短さを一見しても明らかであろう。出来るだけ公募も公表もせず特定業者と契約したいという意図が見える。
これとおなじ調剤薬局を核とする「アメニティ施設」が滋賀医大でも建設されたが応募期間は1ヶ月であった。
 

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2018年2月 6日 (火)

相撲部屋の暴力

News & Letters/615
昨年の日馬富士の暴力事件以降、相撲協会の不祥事が相次いで明るみに出ている。
とりわけ暴力事件は相撲部屋ではモンゴル勢だけでなく日常茶飯事のようである。
貴乃花親方、貴の岩関自身も暴力を振るって力士にけがを負わせていたことも発覚している。
親方が弟子を暴力でたたきあげる。兄弟子が弟弟子を殴る。暴力に耐えられない者は相撲界を去る。これはどういうことか。それは「親方・部屋制度」に由来する。疑似家父長制をとるこの封建遺制では、暴力がその組織運営の原則だ。封建制度の基本を支えるのは暴力だからである。
武士階級が民百姓を支配しその生産物を横奪し搾取するのは暴力を槓桿としてである。
封建制度を支える暴力の支配は儒教の人倫の教えによって合理化され美化されるが、
本質的に暴力の貫徹そのものである。親方が父であり、入門者はそれによって養われるから、
親方は弟子のほとんど生殺与奪の権を握る。文句を言えば鉄拳が飛んでくる。
野球やサッカー、水泳、陸上競技など一般にスポーツの世界は暴力とは無縁である。
相撲界だけに目を覆うような暴力が横行しているのは、江戸時代から続く「親方・部屋制度」の封建的な家父長制に原因がある。
この際この暴力の巣窟である「親方・部屋制度」を解体しこれから力士を解放し、組織を近代化しなければ暴力沙汰はなくならないだろう。
相撲の興行によって得られる収入は最下級の新弟子たちにも給金として支給され、相撲協会が全体としてコーチを構え、けいこ場を運営し練習を保障するという制度に切り替えるべきである。
弟子たちは部屋を離れ、相撲協会の合宿所に住むなり、個々の住居に住むなりして親方、古参力士の鉄拳から自由にならなければ旧帝国軍隊のような相撲協会の暗いイメージは払しょくされない。
政府文科省は、働き方改革を言うのなら、力士の処遇の改善、暴力支配の職場の根本的(解体的)改革を提言すべきである。

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2018年1月16日 (火)

原発裁判

News & Letters/614
国民による原発裁判は種々の方法、論理で戦われている。
地震(火山)や津波による原発施設の破壊の危険性が主な理由である。
このような裁判では、専門家が主体となり市民がそれらに依存し、応援するしかない。
民衆訴訟といっても法廷は弁護士や専門家の独壇場である。
住民は厳密に彼らの弁論を理解できるか、ほとんどできないであろう。
弁護士や専門家は時に高圧的に原告である住民の意見を平然と無視する。
 
原発が人類にとって最も危険であり許容できないものである最大の問題は、
その稼働中の事故や被爆の問題よりも遥かに深刻なのは、放射能の塊であるその廃棄物の生産である。
この使用済み核燃料の安全な処理方法は、原発稼働や原爆製造が始まってから今日まで全く確立されていない。そして、原理的に処分方法は確立できない。プルトニウムやセシウムなど放射性核種は元素であり、これを分解して無害化することはできない。

何万何十万年かけて自然消滅するまで安全に保管しなければならないが、数千年の歴史しかない人類がそのような気の遠くなる未来まで責任をもって管理できるか、ありえないことだ。これはだれにでもわかる話だ。

しかも現在、それの最終処分場は日本のどこの市町村でもそれを受け入れるというところは存在しない。
原発が欠陥商品であることの証左は、しかも致命的な欠陥を持つ商品であることは自明のことであり、それこそが原発の最大の問題である。どんな優秀かつ安全な高性能の原発もこの猛毒の廃棄物生産という欠陥から逃れられない。
原発裁判は、この核廃棄物をめぐって行われてしかるべきである。稼働中の原発の事故をあれこれと追及する付け足しに廃棄物問題を出すのではなく、裁判の主要なテーマとして取り上げ闘われる必要があると私は考える。
 
そうすれば、論理は単純かつ明快であり、専門家や弁護士と同列になって住民が訴訟の中心となれる。
その裁判の主張は、
①いかなる原発も猛毒の使用済み核廃棄物を生産する。
②これの安全な処理方法は存在しないし安全な管理方法も存在しない。処分場を受け入れる市町村はどこにもない。

③電力会社や政府は、②の主張について合理的な反論をしなければならない。
結論:
④この核廃棄物の安全な処理ができるまで原発の稼働はやめるべきである。
 
しかも政府が最近地図で処分場候補地として示したように全国ほとんどどこでも国民は原告適格となっている。

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