2017年1月 6日 (金)

クラゥゼヴィッツ「戦争論」

News & Letters/544

本多延嘉氏の暴力革命論は、結局クラウゼヴィッツの『戦争論』に行き着く。本多氏はクラウゼヴィッツの『戦争論』を高く評価する。
本多氏の共産主義者第23号の論文(「戦争と革命の基本問題」)はクラウゼヴィッツの焼き直しであろう。

ナポレオン時代のこの『戦争論』については、今も世界中の軍人や政治家がほめそやす。
それを最も称賛したのはヒットラーである。問題は、エンゲレスとレーニンがこれを高く評価している点である。

マルクスがこれをどう評価したかについては、私は未だ知らない。
結論から言うと、反戦運動をしてきた私は学生時代からこのクラウゼヴィッツの戦争理論を評価しない。

なぜか。この書は、徹頭徹尾戦争肯定論である。戦争(暴力)は政治の継続であるとしたが、逆に言えば政治は戦争の継続という位置づけだ。
それは外敵だけでなく内部の敵対勢力・民衆にも向けられた国家の暴力の正当化の論理である。

マルクス宛の手紙ではエンゲレスの評価は、この戦争理論はあたかも商取引と同じであると理解しているから、プロレタリアートの理論として評価しているようには見えない。レーニンの評価は、戦争は政治の継続であるというクラウゼヴィッツの主張を特に評価している。

レーニンは経済学や軍事的戦略家としては素晴らしい能力を発揮した。しかし、マルクスの経てきた哲学(特にフォイエルバッハを媒介としたヒューマニズム)の思想は探求した後がない。だから我々は、マルクス・レーニン主義であって、レーニン主義ではない。

レーニンはパリコミューンの総括で、二つの欠点を挙げた。その一つが武装したプロレタリアートの「寛大さ」であった。

確かに反革命のヴェルサイユの政府を打倒しなかったのはパリの労働者の最大の失敗であるが、しかし、それはプロレタリアートの「寛大さ」とは関係がないと思う。プロレタリアートの「寛大さ」はプロレタリアの本性であり、革命の性格から発したものである。
クラウゼヴィッツは、近代戦争の性格は、いろいろな事情で緩和されるとしても原理的には敵勢力のせん滅にあると主張する。皆殺し理論だ。

反戦の旗を掲げてきた我々は、クラウゼヴィッツの『戦争論』とは全く違った想念で現代の戦争に立ち向かってきた。
国のため、民族のための一切の戦争を認めない。外敵に侵入されるときブルジョワジーは敵に国土と人民売り渡すことも辞さないだろう。

自国のブルジョワジーであれ、他国の外敵であれ、われわれは、それらを撃退するプロレタリア革命を遂行するだけである。
プロレタリア革命を達成するには、それだけに頼ることはできないが平和的手段が使える場合は、できる限りそれを使わねばならない。

しかし、結局は武装闘争の修羅場をくぐらねばならないということは片時も忘れてはならないし、その準備を怠ってはならない。

ドイツの戦争扇動詩人シラーの熱情が込められたクラウゼヴィッツの『戦争論』(その行き着くところはヒットラーナチスであり、軍国日本)の根底的拒否がマルクス主義の出発点でなければならない。クラウゼヴィッツの戦争肯定論に根差した本多氏の暴力革命論もきっぱりと拒絶されねばなるまい。

クラウゼヴィッツの戦争理論についてさらに考究して行く。

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2017年1月 3日 (火)

裁判ニュース

裁判の空洞化、おざなり裁判、行政権力に阿諛する判決、裁判官という職業が
これほど卑しくなったのは明治に裁判制度ができてから最もひどいと思われる。
沖縄の新基地をめぐる最高裁判決、原発裁判、そして行政を相手にする住民訴訟において
恥知らずな判決が続く。
私が遂行している高知地方裁判所 や高松高裁、最高裁での裁判官の下した判決は、目を覆うような低劣なものだ。権力の意思を住民にただ伝達する、そのためには論理がむちゃくちゃでも構わない、法令解釈が頓珍漢でも構わない、と考えているのである。涜職行為を恬で恥じないという裁判官の姿を見ると、絶望的になる。新聞など報道機関がもっと裁判に焦点を当てた記事を書くべきであろう。
行政や議会だけでなく、裁判についてもっとメスを入れなければ、この国の権力の暴走を止める者がいないことになる。最近の判決を少しずつ紹介する。
 

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続 革命と暴力(2)

News & Letters/544

現在の日本や世界の情勢は、混迷を深め収拾の目途が全く立たない。
戦争や核兵器の問題にしても、原発の問題、労働者の過重労働と低賃金、原発以外の環境公害問題、差別や迫害・・・・どれも深刻化し、拡大している。
独裁体制の社会ではもとより民主主義政治体制の社会でも、真に民主的に人類の課題を正しく解決できる糸口も見えない。

反体制の大衆運動や革命を目指す諸党派の内部でも、思いあがった指導者が、独善的な運営をしてやまない。
人類を救う正しい政治思想、正しい革命の手法は何か、我々は全力を挙げて研究し討論を深めなければならない。

現在の世界を覆っている資本主義体制を打倒し、新しい人間中心の平和な社会を構築するのはどうしたらよいのか。
回答:プロレタリア革命。確かに圧倒的大多数で社会の生産を担っている労働者大衆が決起する以外にないことは間違いない。
プロレタリアートが決起した際、現行の議会や官僚組織を使って革命の課題を遂行することは到底期待できない。

必ず現体制を擁護している警察、軍隊、裁判所、監獄などの暴力装置がそのプロレタリアートの前に立ちはざかる、ということも確実である。
このブルジョワジーの暴力の発動を阻止するためには武装したプロレタリアートがその暴力装置を暴力的に破壊しなければならない。これも間違いない。
暴力の行使がどの範囲にまで及ぶかは、敵の出方次第である。

我々はこのプロレタリアートの武装蜂起と暴力の行使について初めから予定し準備するものでなければならない。

だが、だからといって、プロレタリアートによる、ブルジョワ体制を転覆し社会主義を目指す革命を暴力革命というべきではない。
敵の暴力装置を破壊する行為は確かに実力行使であり暴力の行使であるが、その暴力はプロレタリア革命の本性を表現するものではなく、革命を生みだす際の助産婦的な意義を持つにすぎない。

革命の母体と生まれた主体は人間であって、時には、ほとんど助産婦の手を煩わすことはない場合もある。
70数年前、高知県の吉良川町の西灘部落で、実際私は産婆さんが来る前に一人でこの世に出てきたということだ。

革共同中核派の最高指導者であった本多延嘉氏の『共産主義者』第23号の論文「戦争と革命の基本問題」は、革命的転変の折に暴力の行使の具体的内容についてはほとんど記述せず、「プロレタリア革命の暴力性」すなわち、「プロレタリア暴力革命」について論ずる。

本多氏はいう
『もともと共産主義革命の暴力性の根拠は、プロレタリアートによる「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」(マルクス『宣言』)のもつ決定的な意義に規定づけられている。』
しかし、そうだろうか。
「共産主義革命の暴力性の根拠」が「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」に求められるのであろうか。

ブルジョワ的私有財産の労働者階級の共有財産化は、プロレタリアートによる権力奪取の後で遂行される最も重要な課題だ。

その時点では、ブルジョワジーの武装解除がなされプロレタリア大衆による民主主義の体制が達成されているから、それは、暴力過程ではなく、社会の圧倒的多数の多数決によって民主的にかつ平穏に遂行される。「専制的侵害」といっても独裁者による専制ではない。プロレタリアートの暴力の行使は、敵権力を打倒し敵権力の暴力装置を破壊するときだけである。

ブルジョワ財産への「侵害」といっても、本来的な侵害ではない。プロレタリアート大衆にとっては当然の回復行為にすぎず、きわめて人間的行為である。
また本多氏は言う、『暴力はプロレタリアート人民の革命的共同体、偉大な世界史的事業を達成する能力を回復するための不可欠の表現形態である。』

この文章は前後二つに分かれている。前の「暴力はプロレタリアート人民の革命的共同体」の文章は、どこへつながっているのか、どこにもつながっていないのか不明である。
後の①・・・ための不可欠の表現形態 につながるのか②・・・を達成する能力を回復・・・・につながるのか、それとも、後のどこにもつながれず独立しているのか、すなわち、暴力は・・・革命的共同体であり、という文章なのか不分明である。しかし、いずれにしても暴力が敵権力を破壊するということよりも、プロレタリアート人民や革命的共同体の本性を形成する上で重要だということである。

そして、本多氏はいう、
『暴力は革命の助産婦である、というとき、革命の担い手と革命の助産婦である暴力の担い手が統一されていることを無視して、あたかも暴力が革命の外部にあって、それが革命をとりあげるように考えるのは、暴力革命に対する許しがたい反革命的敵対の理論である。』

革命の担い手と暴力の担い手が同じプロレタリアートであることは自明であるが、本多氏はその同じというのを「統一」という。

革命の動乱の中でプロレタリアートがするべき課題はたくさんある。敵権力を封殺するための暴力の行使もその一つである。だが、プロレタリアートの任務は、それだけではない。
革命遂行の行為に本命とするものとそれを補完したり助けるものと重要性において差等があるのは当然である。敵権力を暴力で打倒することは最大限重要であると位置づけたとしても暴力の行使が革命の本命ではない。敵を打倒するという暴力行為も革命行為の一つであり、「助産婦」という表現はそれを最小限に抑えようという「表現形態」である。

暴力助産婦論は、何も暴力がプロレタリアートの外部にあるといっているのではない。ここではむしろ、本多氏の助産婦論排撃の意図がマルクスやエンゲルス批判であり、プロレタリア革命がプロレタリアートだけでなく、農民やプチブルジョワ連中に対する説得と合意の獲得(宣伝工作)が最も重要な課題であることを無視し、革命運動の党派や大衆運動の中で異論を唱えるものを片っ端から糾殺する理論を作り上げようとしたところにある。

中核派の「革命軍」の主要な標的はブルジョワ権力やその手先ではなく、党派や自分の言うことを聞かない活動家に向けられていたということは、本多氏の論文の当然の帰着であり、それこそが「反革命的敵対の理論」であろう。自分も又、60年代から70年代にかけて本多氏の下でその部下の一員として活動して、この本多暴力論を読んでいたが、当時はよくわからなかった。

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2016年12月30日 (金)

続 暴力と革命

News & Letters/543

プロレタリアートが革命情勢の中で、権力を奪取するためには、その統治機構を「暴力的に転覆」する必要がある、とマルクスは『宣言』で書いた。
だからといって、本多氏の唱えるようにプロレタリア革命が本質的に暴力主義革命ということにはならない。

本多氏は、人間の歴史の根源から、すなわち原始共同体の時代から共同体の意思の形成過程も含めて社会そのものが暴力によって作られてきた、プロレタリア革命も「プロレタリア暴力革命」であり、プロレタリアートの共同意思の形成・権力の奪取、革命の遂行の全過程が暴力の貫徹過程というとらえ方をする。

権力と渡り合う闘争だけでなく、党派闘争はもとより人民内部の革命運動の組織活動もまた暴力過程に位置づけられるというのである。
暴力はすでに革命の助産婦ではなく、革命の本質であり、「規範」でもある。

しかし、レーニンが『国家と革命』で高く評価したマルクスのパリコミューンの描写(『フランスにおける内乱』)では、全くそのようなものではない。
『フランスにおける内乱』の第2章や第3章をつぶさに見ればわかる。その一節を以下引用するが読者はこの際その本を読むべきだ。

”3月18日からヴェルサイユ軍のパリ進入まで、プロレタリア革命は、「上流階級」の革命に、ましてその反革命にふんだんに見られる暴力行為を、まったくともなわなかったので、ルコント、クレマン・トマ両将軍の処刑と、ヴァンドーム広場事件と除けば、その敵が騒ぎ立てる材料となるような事件はなにも起こらなかった。”

悪逆無道な両将軍の処刑や、ヴァンドーム広場事件についてやむを得ない理由を述べながら、マルクスは、パリコミューンでのプロレタリアの「寛大さ」、「武装した労働者の雅量」をむしろ強調している。パリコミューンはもとより一時的な達成物にすぎなかったし、プロレタリアートも未成熟であったが、ブルジョワ的な常備軍や官僚機構、議会が廃止され真の民主主義(Representative democracyではなく Direct democracy)が徹底された。

革命的転変の中で激しい市街戦などで死者が出るとしても、殺戮そのものが目的でもなく、あくまでも暴力そのものは革命の助産婦であり必要悪にすぎない。

プロレタリア革命は、すでに現体制の中にはらまれ、支配階級の桎梏のもとに抑圧された、人間本来の自由・平等への意思の実現、労働の解放を通じて人類の再連帯を勝ち取る運動であって、そのはじめに、敵の暴力装置を破壊し(この時暴力の行使もひるまない)、革命を守るために武装蜂起が必要なのである。

憎しみと復讐による、あるいは「規範」とまで高められた暴力の解放行為ではない。

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2016年12月25日 (日)

革命と暴力

News & Letters/542

革共同中核派の関西派が84年三里塚闘争での第四インターへの当時の中核派のテロ攻撃について自己批判した、という。

また、「革共同の敗北」という本で、中核派の元再考幹部らも同様な反省を示した。
しかしもとより、その自己批判は不十分であろう。第一、犠牲者に対する謝罪と賠償はどうするのか、

暴力をふるって半殺しにしました、それは間違っていました、という総括だけですむわけではない。
犠牲者のところへ行って頭を下げ、できる限りの償いをするのが人間というものだ。
しかし、反省は、そんな次元にとどまらない。

①、唯我独尊的な前衛党意識の問題
②、暴力論(とりわけ本多延嘉の「共産主義者第23号」の「戦争と革命の基本問題」での暴力論)の問題
③、糾察隊の組織と実践
これらについて根源的な反省をしなければ、中核派の歴史的な敗北は総括されえない。
①、②、③、 の誤りを具象化した人物は今も組織の中でひそかに生き続けている。私もこの連中の組織した糾察隊の餌食にされたのである。

ここでは、②の本多論文の暴力賛美論について論じる。
本多の暴力論は、マルクスが言う、暴力は革命の助産婦である、などという次元を超えて、暴力の発現が革命そのもの、革命とは暴力の行使だ、プロレタリアートは暴力の権化だととらえた。

これは暴力論としては画期的であり、恐るべきものである。資本主義以前の階級社会では、人民は武装しなければ自己を防衛し人間としての尊厳と理念を実現できないことは確かだ。
しかし、武力によって他を圧倒し自己を暴力体として我意を支配的に社会に打ち立てるというのは常軌を逸脱している。

暴力や武力は社会変革や組織拡大のの手段であり助産婦的なものであって必要悪なのだ。殴りあったり憎悪したりすることはあっても社会変革の基本は大衆的な合意の獲得であり、同意を原則とした組織活動であって、異論を唱える者を暴力的に抹殺することは論外なのである。プロレタリアが武装するのは、常時武装した敵権力の暴力に対抗し、権力を奪取するためである。

不必要に暴力を振るい、敵を殺戮する必要はない。まして、人民内部において、反対派に凌駕するために暴力的殲滅戦のために糾殺行動を組織するなどはそれ自体反革命行為であろう。
本多論文は、その糾殺隊の論理であり、驚くべきものだ。

     1、暴力の原理論 暴力の万能性

【暴力は、かならずしも人間性に敵対する粗暴な行為を意味するものではなく、人間社会の共同利益を擁護するための共同意思の積極的な行為なのである。すなわち、本質的に規定するならば、暴力とは共同体の対立的表現、あるいは対立的に表現されたところの共同性であり、人間性に深く根差したところの人間的行為である。】

暴力は、「共同利益」、「共同意思」、の行為、人間の、行為ではなく、「人間的行為」という口吻には強い肯定的響きがある。これが本多氏の暴力の原理論だ。
さらに、【暴力は原理的には共同利害を前提とし、それを擁護するための人間的な行為なのであって、その意味では、共同利害をつくりだしたり、共同利害を貫徹する手段なのである。
つまり共同利害に基づく共同意思の形成とその対象化された意思を知性としつつ、共同利害を擁護し、維持し、発展させていくためのテコとして強制行為が発現していくのである。】

暴力は、「共同利益」を擁護するだけでなく「共同利害を作りだし」、それを貫徹する「手段」でもある、共同利害を擁護し、維持し、発展させるテコ、ということだから、暴力が人間の歴史をつくり、発展させたということになる。ほとんどジンギスカン的な暴力・征服歴史論ということだろうか。

【共有財産に基礎をもつ原始共同体においては暴力は私有財産や支配、被支配関係を生みだす根拠であったどころか、まさにぎゃくに共同利害、すなわち共同体の成員の人間生活の社会的生産過程(労働における自分の生活の生産と生殖における他人の生活の生産の二契機の統一)の意識的規範であり、したがってまた社会的生産の物質的な前提条件をなす土地を含む生産手段の共同所有ならびに共同管理とそれを基礎とした社会的総労働の比例的な配分と生産物の社会的分配、さらにかかる労働過程を基礎とした生殖=人間関係を規制する意識的規範としての役割をはたしていいたのである。】

暴力についてのこの長い文章の意味が分かる人がいるだろうか。書いてあることはわかるが意味が不明である。
文字通りに読めば、暴力が人間の社会的生産過程の「意識的規範」だというのである。規範というのは法令のようなものであろう。

暴力が人間関係を規制する規範だというのだから、暴力団が暴力で社会を支配するそういう社会の話か、戦国時代の話なのだろうか。この話は特殊な歴史的社会のことではなく、
人間の原理的な暴力の性質を記述するところだから、暴力が歴史の創成、社会の維持、規範など人間生活全般を貫徹し、支配している原動力のようなものということを意味するのか。

法令や倫理など「規範」は、階級社会では、支配階級の利害を確保するためにつくられるが、暴力そのものではない。原始共同体でも社会には規範はあったであろう。その規範を支えるために強制力=暴力が行使されるということもあったであろう。しかし、規範は暴力そのものではない。それが人間社会の意識的規範だというのは、規範のないあからさまな暴力社会の話であろう。

あるいは、暴力を優勢的に行使することが社会の規範となったということか、いずれにしても本多氏は、社会が暴力でもって成り立っているということを言いたいのであろう。

     2、プロレタリア暴力革命  マルクスを超越

【プロレタリア暴力革命は、「敵の出方」や「一定の条件」や「身の程知らぬ敵の反撃」なるものによって採用される革命の戦術的形態を意味するものではなく、プロレタリアート人民の自己解放の本質的規定性を意味しているのである。】

これはどういうことか。少し長くなるが本多氏の最も核心的な主張を引用する。

【暴力はプロレタリアート人民の革命的共同性、偉大な世界史的事業を達成する能力を回復するための不可欠の表現形態である、ということである。
もともと共産主義革命の暴力性の根拠は、プロレタリアートによる「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」(マルクス『宣言』)のもつ決定的な意義に規定づけられている。
しかし、われわれは、この規定の内包する意義について、ただたんにブルジョワ的所有権の侵犯の不可避というような理解におしとどめてはならない。

そうではなしに、われわれは、労働力の商品化という「平等」の交換過程をとおして形成される労働者の非人間的現実の根拠であるブルジョワ的私有財産をプロレタリアートが専制的に没収し、労働者階級の共有財産として転化していく暴力的過程が、まさにプロレタリアートの革命的共同性を現実に形成し、自己解放の物資的前提条件とその主体的な自覚と能力を統一的に創成する過程である、と積極的に位置づけることから出発しなくてはならないのである。

プロレタリアート人民の革命的蜂起とその武装の問題、革命的前衛党の指導のもとでの計画的、系統的準備の問題は、プロレタリア暴力革命の最も高度な内容をなすものである。平和革命になるか、暴力革命になるかは敵の出方による、という見解(日共)、一定の条件のもとで、しかも敵が身のほどを知らずに反撃してきた場合には暴力革命をとることもある、という見解(カクマル)をもって、プロレタリア暴力革命に敵対するものは、プロレタリアート人民の革命性、自己解放の事業のもっとも深部の敵対者である。】

共産党宣言では「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」について暴力的過程を必然とするとはいっていない。
それを記述する前に『宣言』は、プロレタリアートを支配階級にすることと同時に「民主主義を闘い取ること」を前提にしている。

プロレタリアートが支配階級になるには、耐えがたい抑圧と搾取への革命的爆発の中でブルジョワジーを「暴力的に転覆」するとしているが、プロレタリアートが権力を握ったら、ブルジョワジーの私有財産の収奪など革命の諸目的の遂行はブルジョワ側から見れば「専制」的であっても、あくまでも民主主義的に実行されるのである。
『宣言』では、暴力は、革命情勢の中でプロレタリアートがブルジョワ体制を転覆するときに使われるとした。

本多氏は、ブルジョワジーの私有財産の「専制的侵害」を暴力とし、それを暴力過程に入れた。
それだけでなくさらにマルクスを超えて、「プロレタリアートの革命的共同性を現実に形成し、自己解放の物質的前提条件とその主体的な自覚と能力を統一的に創成する過程」をも「暴力的過程」として「積極的に位置づける」必要があるという。だから、革命だけではなくその準備段階から人民内部での組織活動や党派闘争も暴力過程に含まれることになる。

暴力が、「プロレタリア人民の自己解放の本質的規定性を意味している」、というのは、プロレタリア人民は、暴力の権化であり、プロレタリアートの指導機関であり、暴力の発動機関である前衛党の暴力装置として位置づけられる、ということである。
第四インターへのテロの自己批判は、このような暴力礼賛、マルクス主義というより暴力主義思想に汚染された革共同中核派の核心的思想まで踏み込んだ反省にまで及ばなければならない。

この本多氏の暴力理論は、権力に対してその暴力が振るわれるとき、それ相応の威力があり意義があったであろう。だが、人間解放の哲学であるマルクス主義とは、何の関係もない。

激動の60年代~70年代に諸戦線で果敢に権力に立ち向かって戦った中核派の青年たちは、本多氏の暴力論に取りつかれて立ち上がったのではない。
だが、一部の中核派内部の幹部には、(いまもなお)この本多暴力論に心酔し、糾殺隊までを組織して暗躍した連中がいた。

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2016年12月19日 (月)

北方領土

News & Letters/541

北方領土4島は日本の固有領土である、という。
ロシアは、経済的にも軍事的にもこの領土をロシア化した。
ロシアは絶対に日本に返還する意思は持たない。

日本が侵略戦争をした結果、植民地はもとより当然であるが、固有の領土まで失った。

その責任は①もともと、無謀な戦争を繰り広げポツダム宣言の無条件受諾をした昭和裕仁天皇や安倍晋三の祖父岸信介ら戦犯たちにある。
沖縄は天皇制の存続と交換されたという。

そして②今、ロシアが、頑強に返還を拒むのも、天皇裕仁や岸信介、そして安倍晋三と続く国賊どもが沖縄や日本各地を米軍の軍事基地に提供し、日米安保体制を築いている事実を作って来たところにある。

北方領土が日米安保の新たなる拠点になることが分かっているロシアがそれをわざわざ返還するはずがない。平和条約締結と2島返還とかいうが、戦争法案を強硬可決した安倍晋三は相手に刃を突き付けて何の平和条約といえるのか。

原因①も結果②も裕仁と岸信介らの係累売国奴によって作られた。
マスコミは、虚妄の返還ストーリーを国民にばらまくのではなく、上の①,②の真実を報道すべきである。

日米安保を破棄し「憲法9条を文字通り実行しなければ、隣国とのいかなる平和もあり得ないし、固有の領土も戻ってこない。
北方領土を返還せよ、のスローガンは日米安保体制解体、九条を守れのスローガンと一緒に叫ばなければ実現性は全くない。

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2016年12月 9日 (金)

天皇制

News & Letters/540

 天皇制についてこれを解消すべきだと主張しているのは日本共産党だけだ。さすがだ。
 共産党(綱領)は、しかし、天皇制を廃止するには憲法を変える必要があるから、時機を見て取り上げるという。

 しかし、憲法第1条では、天皇の地位は国民の総意で決めるということになっている。
したがって、天皇制を廃止することも国民投票によって決することができる。
 皇室典範があってもそれは天皇一家の私的な法律となり、国政に影響しない。
 天皇の地位は、国民一般と同等とするという決議を国民投票で可決すれば天皇制は実質的に終わるだろう。

  皇室典範は法律であるから、その決議に基づいて国会で自在に改変することができる。
現在天皇自身がその過酷な公務から悲鳴を上げておられる状況から根本的に開放するには
天皇の地位そのものを国民投票で決すべきであって、耄碌した有識者や右翼論客に任せるべきではない。

 この措置は憲法第14条の趣旨にも合致するものである。
 天皇といえども人が嫌がることを強制しようとする右翼学者たちの言動は、強要罪が該当するのではないか。

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共産党の綱領

News & Letters/539

 日本共産党の綱領(2004年1月改定)の中で、原発という文字は一字も見えない。
エネルギーに関連する文章は次のところだけである。

「四、民主主義革命と民主連合政府」の章で「経済的民主主義の分野で」の箇所で
「3 国民生活の安全の確保および国内資源の有効な活用の見地から食料自給率の向上、安全優先のエネルギー体制と自給率の引き上げを重視し農林水産政策、エネルギー政策の根本的な転換を図る。

 これでは、原発に反対かどうか、何のことかわからない。むしろ、原発推進と受け取られる可能性すらある。
 「安全優先のエネルギー体制と自給率の引き上げ」では、電力会社の原発推進の宣伝文句と酷似している。
  使用済み燃料の再処理による核のリサイクルでは電力会社や政府はエネルギーの自給だとうそぶいている。「エネルギ^-政策の根本的な転換を図る」といっても何から何へ転換させるのか全く分からない。

 チェルノブイリ原発事故から相当たっている2004年に、脱原発・脱化石燃料→再生エネルギーへの転換という明確な方針がなぜ綱領に出せなかったのか。
原発は放射能汚染で人類の生存をも危機に落とし込めているし、化石燃料とともに地球温暖化の巨大な装置なのである。
  野党共闘で日本共産党の重みは誰も否定できない。いい加減な綱領はいま直ぐに改訂し、市民と野党共闘の闘争に反原発・反核兵器の戦略を基軸に据えなければならない。

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2016年12月 6日 (火)

裁判は続く

News & Letters/538

1000万円を貸したが、返済を拒絶されている。松延宏幸町長は、裁判所で貸付金を回収する義務はないと主張した。

1000万円はどうなるのだろうか。この馬鹿げた主張にも反論をしなければならない。
公金を貸した首長がそれを回収する義務がないなどと主張するとは予想もできないことであった。

奨学資金でもなんでも東洋町から金を借りているものは、払わなくてもいいことになるのか。

平成28年行ウ第6号 損害賠償請求事件
原告 澤山保太郎
被告 東洋町長松延宏幸
         
原告準備書面(1)
 高知地方裁判所 殿
                      平成28年12月2日
原告は以下の通り弁論を準備する。
はじめに
 別件訴訟の内容と経過について

一、 債権について

普通地方自治体で問題になる税金等の滞納の扱いについては一般的にその市町村の債権を二種に分けて処理する。

一つは公債権でこれには強制徴収権(差し押さえなど自力執行権)のあるもの(地方税など)と非強制徴収権で自力徴収権のないもの(公営住宅使用料や水道料金など)がある。
今一つは、私債権で私法上の契約などに基づいて発生した債権であるが、徴収についてはこれには自力執行権は例外を除いてほとんどない。

自力執行権のない場合は、督促状を発行したり訴えを起こして公金徴収を履行しなければならないことになっている。この原則は東洋町も実行しており、論議の余地がない。
本件の場合も私債権として貸付金の回収をする手続きを踏みこれを回収することは東洋町長の義務であって、これを怠ることは、地方自治法第240条第2項に違反する。
すなわちその地方自治法は

「普通地方公共団体の長は、債権について、政令の定めるところにより、その督促、強制執行その他その保全及び取立てに関し必要な措置を取らなければならない。」と規定し同法施行令171条(督促)、171条の2(強制執行、訴訟)の手続きを義務付けている。
平成16年4月23日最高裁第二小法廷の判例によれば、地方自治法の債権の行使については、首長の自由裁量の余地は全くないと判示されている。

二、本件債権の行使について

しかるに、被告答弁書で「東洋町が野根漁協に対して、平成23年11月に1000万円を貸付け、被告が東洋町の町長として貸し付け手続きに関与したことは認めるが、貸付金を回収する義務があることは争う。被告が負うのは、地方自治法、同施行令で規定された債権を管理することである」などというのは公職を冒涜する主張であり言語道断である。 
貸付金の回収義務は前記の通りであって被告はこれを免れない。
そもそも債権は、債務者が履行する義務があり、その債権の管理は、すなわち債務者の義務履行を管理することなのである。貸付金の債権管理とは、貸付金を債務者から回収する行為である。そのことは、地方自治法第240条の冒頭で定義づけられている。すなわち、
「債権」とは金銭の給付を目的とする普通地方公共団体の権利である、と明記されている。
ここでいう「金銭の給付」とは本件の場合、1000万円の債務者が東洋町に弁済することであり、債権者が貸付金を回収することである。被告は債権を何か宝物か金庫のように考え、これを大事に抱えていることが自己の任務と考えているようであるが、いやしくも地方公共団体の首長として余りにも不甲斐ない認識であろう。

本件の監査請求及び訴えは、地方自治法第242条の1第1項の「違法もしくは不当に公金の賦課若しくは徴収若しくは財産の管理を怠る事実」に基づくものである。
すなわち違法若しくは不当に公金の徴収を怠る事実について監査請求及び訴えがなされたものである。貸付金について督促状を発しても支払わない場合、強制的に支払わせる手段を取るという意味で本件の場合も徴収という言葉が妥当である。
被告が貸付金の回収の義務がないというのであれば、その法的根拠を示すべきであろう。

三、損害の発生について

被告答弁書は、「現在、借用書(甲6)記載の東洋町が野根漁協に貸し付けた1000万
円が東洋町に弁済されていないことは事実である。しかし、将来において、東洋町が野根漁協から、1000万円の返済を受けることができないことは確定していないから、現在、東洋町に1000万円の損害は発生していない。」という。

1、高松高裁の判決文他

本件については、別件で高知地方裁判所(平成24年行ウ第7号)、高松高等裁判所(平成26年行コ第3号)、最高裁第二小法廷(平成27年行ヒ第156号)、高松高裁(平成28年行コ第8号)で裁かれており、1000万円の貸付について東洋町長松延宏幸に不法行為があり賠償責任を追及する訴訟が続いてきた。

これらの裁判で問題になったのは松延宏幸の野根漁協への本件貸付について公金支出行為の当否であるが、1審では違法性があるが、松延宏幸がその違法性を認識していなかったとし賠償責任は免じ、第二審では、違法であり故意性があったと認定し賠償責任を認定した。しかるに最高裁及び高裁での差し戻審では、違法性はなかった、合理的であったという判断が下され、現在最高裁に上告中である。
松延宏幸の本件貸付の可否についてはともかく、漁協側の返済についての態度については、最初の高松高裁の判断(平成26年12月18日判決)があるだけである。すなわち
「被控訴人は、東洋町には現実の損害がないと主張するが、2で認定したところによれば、野根漁協は本件貸付の効力自体を否定しており、今後貸付金を回収する見込みがあるとはいえず、採用することはできない。」と断じた。

この判決文(Ⅰ6頁~17頁)によれば、
「野根漁協の本件貸付当時の代表理事(組合長)である桜井菊蔵は平成24年3月の総会において、本件申請時に東洋町に差し入れた確約書に署名した理事らの義務を改選後の理事らに引き継ぐことを議題として諮ったが、本件貸付けを受ける至った本件理事会決議及び本件定款変更の手続きに瑕疵があるとの意見が出て決議に至らず、同年6月7日に代表理事を辞任し、他の理事も、松吉保彦を除き辞任した(甲21,28)

さらに、
「後任の代表理事に就任した桜井淳一は、本件貸付に至る本件理事会決議及び本件定款変更の手続きに瑕疵があるとして、本件貸付の平成25年度分200万円の償還期限である同26年3月31日を経過した後である同年5月6日、東洋町に対し、本件貸付の効力を否定する内容の文書を送付して200万円の支払いを拒絶するとともに、同年8月16日の野根漁協臨時総会において、本件貸付の効力を認めないとの結論を出した旨報告し、本件貸付の効力を争っている。」(前提事実(4)、甲35,36)
高松高裁のこの事実認定は、事後の裁判でも問題になっていない。

2、野根漁協の本件貸付金の事実を否定する理由

第一に、本件貸付金を決議した理事会の名簿が虚偽であること、正規の理事名簿(定数8名)で計算すれば、出席したという6名の理事のうち部外者(松吉保)が1名、特別利害関係人2人(親子、実弟、松吉保彦、松吉孝雄)を除けば3人(桜井菊蔵、桜井勇、井崎勝行)であり、正規の出席可能理事6人(桜井菊蔵、桜井勇、井崎勝行、桜井淳一、桜井春雄、松田博光)のうち3人出席では過半数に達していないから、その理事会は成立していない。

第二に、そもそも6人の理事が平成23年11月3日に理事会を招集し、開催した事実は存在していない。理事会を開いたことにして、後で議事録に署名しただけである。
野根漁協の特別調査報告書でも出席したという理事のうち2名(桜井勇、松吉保彦)はその日出漁していて陸にはいなかったとされている。

第三に、桜井菊蔵が本件貸付金申請の直前に組合長に選任されたという理事会は、正規に招集されたものではなく、また、議決に参加した理事のうち松吉保は理事に選出されたことは一度もない部外者である。そのものを除くと出席理事は4人しかいない。8人の理事が存在している中で、4人の出席では理事会は成立していず、桜井菊蔵は組合長にはなれない。正規の組合長でない者が、申請して借り受けた貸付金は漁協として責任を負えない。

第四に、本件貸付金を議決したとされる総会の議事録を見ても、1000万円借り入れるという文言は何も記載されていず、訳の分からない「定款変更」の話だけである。
組合員総会で1000万円を借り受けるという決議はしたことがない。
以上のような主張について松延宏幸側が反論することができるであろうか。
最高裁では、虚偽の理事名簿を提出し、特別利害関係人の計算をして乗り切ったが、野根漁協の総会でその虚偽名簿が通用するかどうか。かつて一度も正規の総会で選任されたこともない人間を3人も理事にでっちあげ(従って正規の理事3人を抹消)する行為は雲の上の最高裁や高裁では通用するが現場では笑われるだろう。例えばそのでっちあげ理事のうち一人(松吉裕也)は、野根漁協の職員である。職員は経営者である理事職を兼任できないことは自明であろう。

3、貸付金規則の実行

本件貸付は貸付規則に基づいて実行された。この貸付規則は、正規の手続きで公示されていず、無効なものであることは、第二審、最高裁でも認定され、本件貸付はいかなる規則にも基づかず、町長の裁量によって行われたとされた、という。
しかしながら、東洋町長松延宏幸は、この貸付を行うにおいて議会で本件貸付規則を示し、それが定めた手続によって貸付を行うことを言明した。
してみれば自らの裁量によって本件貸付規則に基づいて貸付を実行したということができるから、本件貸付規則の各規定に自ら拘束されるということになる。

本件貸付規則第第10条に組合及び転貸しを受けた漁業者が「貸付金を目的以外に使用したときには貸付金の一部又は全部について返済を求めることができる」と定めている。
転貸し先である松吉小敷が目的にそって漁具類を購入したという記録、これを操業で利用したという事実を証する記録は全くない。松吉小敷が1000万円の借入金で何かを購入したという形跡は全く存在せず、松吉小敷は本件借入金を受けて1年もしないうちに操業をやめたまま今日に至っている。
貸付金の使途を確認するのは被告の責務であり本件規則第12条には関係漁業者から「関係帳簿類その他必要な物件」を検査することができることになっているが、被告は全く無関心である。

目的通りの漁具の購入の事実がない、使途が不明である以上、償還期日に関わらず、規則第10条に基づいて本件貸付金の全額の返還を求めねばならなかったが、被告は何もしていない。返還金は債権であり、これを回収しないのは松延宏幸の違法行為である。

4、すでに3期分が償還期日を過ぎた
1件記録によれば、本件貸付金の償還について督促状を発行しているがすでに3期分600万円が返済期日を過ぎている。やがて残りの1期分も間もなく返済期日を過ぎても返済がされないし、最後の1期分も同じように返済され得ないだろう。
すくなくとも、これまでの3期分については地方自治法に定められた通り、債権を実行しなければならないし、公金を確保しなければならない。本件貸付金を借りた当時の漁協理事会の署名理事の中には高齢のためすでに死亡したり(2人)、漁業をやめていく者が続出している。
本件規則第11条によれば、償還期日までに支払わなかった場合10.75%の延滞金を徴収することになっている。すでに延滞金だけでも100万円を超えている。
2年後以降の延滞金は年間100万円を超えることになるだろう。

5、督促状などの送り先の誤り
被告は、督促状を野根漁協に送付して受取がなされなかったなどといっているが、
現在の野根漁協の本件貸付金についての拒絶的態度は変わらない。又その理由が存在する。
被告が償還金を請求する相手は、本件確約書に署名押印した「理事」たちである。
その理事について原告が、それらは正規の理事ではない、と主張したのに対し、被告は最高裁まで一貫してそれが正規の理事であるとして否定しなかった。

前掲高裁判決文の通り漁協総会では本件貸付金については否認された。理事会の成立も重大な疑義がある。そうである以上少なくとも総会承認のない事業についてこれを実行した責任は当時の理事に係ることは明らかである。
 その確約書(甲第3号証の1,2)によると、「3、規則に定める事項及び本確約書の履行が困難となった場合、町が法的措置(役員等の個人財産への差し押さえ、提訴等)を執行することについて、異議はありませ」と確約されていた。
被告と談合して本件貸付を実行したのは、これら確約書に署名押印した「理事」たちであることは明らかである。

支払いの通知書や督促状、また催告書を間違った者に送り続けたのでは全く無効な行為であり、送ったことにはならない。強制徴収も訴訟も相手が間違っているなら問題外である。
被告は、これらの事情はよくわかっているはずだから、督促状の送り先が借り受けた当時の理事かまたは、又貸し相手であることを知っていながら、わざと情実か何かで避けているものと考えられる。

以上の通りであるから、平成23年11月台風の災害の救済名目で出した東洋町の公金1000万円は丸ごと使途不明となり、償還期日とは関係なく全額返還されるべきものであるが、何の手続きもなされていない。また、これがまともな貸付金としても、償還期日が超過しているのに元金(3回分600万円)も延滞金もそのまま放置されている。
償還金の徴収は時効が来るまでの間にすればよい、という考えでいるが、理事会に署名押印したという理事のうち、すでに、当時組合長を名乗っていた桜井菊蔵と理事であった松吉孝雄は死亡している。次々に高齢化した関係者はこの世から去っていくのは止めようがない。時効の前に死に絶えたら徴収すべき方策がなくなる。

1000万円の公金を回収して町民のために有効に使うということでは、被告は、可及的速やかにこれを処理する義務がある。

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2016年11月26日 (土)

言論の封殺

News & Letters/537

 私の言論に対する封殺攻撃は幾回かあった。

一つは、全国部落研と中核派との路線論争である。
この論争に対しては橋本利昭らが私に対して2組の糾殺隊を組織して白色テロを実行して封殺に成功した。糾殺隊の隊長はFとYであったという。この白色テロによって澎湃と台頭していた革命的な解放運動がつぶされた。

大衆運動を指導中の反対派を暴力でつぶすというのはスターリン主義の真髄でありマルクスレーニン主義とは正反対の反革命そのものだ。

次に、私が東洋町の町役場に入って、行政内外の不正行為を次々と暴きこのブロッグに載せたが、それに対して一部の町民からブログそのものをやめろという攻撃が続いた。しかし私は断固としてこれを拒否した。

今、私が九州で反原発の運動を展開してきた。それは九州の人の要請であり、私もやらねばならないと決心してやっている。

しかし、最近の私の本ブログなどの言論について厳しい査問とも思える規制行為を受けた。
私の主張は、政府文科省の地震調査研究推進本部の「新レシピ」を原発再稼働の裁判や運動で主張すべきだ。

そのレシピでも電力会社が各原発で設定した基準地震動の値を大きく超過し、原発は動かせなくなる、というものであるが、これは何も私の独創ではなく、すでに全国各地の反原発住民訴訟で重要な戦いの武器として使われているし、脱原発全国弁護団連絡会(海渡、河合弁護士らが主導)も原子力規制委員会に対し、このレシピに基づいて全国の原発の過小な規準地震動を計算しなおせという「要請書」を出している。特に「若狭ネット」で大阪府立大の長沢教授がこの政府のレシピの住民裁判での活用を強調している。

だが、玄海原発に対する二つの陣営がやっているそれぞれの裁判では、このレシピに基づく主張は何も出されていない。裁判で有力な新証拠を取り上げることが重要なことは言うまでもない。他の裁判闘争で活用している武器をどうして使わないか不可思議だ。佐賀を拠点する二つの陣営のうち一つが、そのレシピで計算すれば玄海の竹木場断層についての規準地震動は、現行の520ガルをはるかかに超えることが確認された。

それでもこのレシピを使わないという。政府の推本が、このレシピを作ったのも市民側の地震学者たちの批判活動の結果である。

武村方式に比べれば完ぺきとは言えないかもしれないが、政府推本のレシピでも全国の原発の現行の基準地震動を超えるという事実は、電力会社や原子力委員会にとっては脅威であり、裁判では窮地に立たされる。原子力委員会や経産省は政府部内、地震学会でも孤立しているという状況だ。

だが、佐賀の裁判闘争をやっている人たちは、これを取り上げようとしないばかりか、その状況を私がブログで明らかにしたことについて「私たちの裁判をつぶす気か」などと罵倒を浴びせ、ブログやメールで取り上げることを止めろという圧力をかけてきだした。
それはほとんど査問に等しいものだった。その男達は平然と言う。「九電などへの質問など運動面でその「新レシピ」を出さないことにしたのも私たちの裁判に影響があるからだ」いったいこの男は何者なのだろうか。誰かに対する「信義」を大事にしなければならないという。その誰かの計算でも新レシピは九電の基準地震動を超えるという数値を出していた。

それでも、それを使わないという。使わないというその理由に合理性があるであろうか。かれは、そのレシピについてずっと前から知っていて、使わないことに合理的理由は何もないことも知っている。論理的に言えば、合理的理由がないということは不合理な理由ということだ。それで勝つかもしれない有力な証拠を裁判で使わないということでは、非難を浴びるだろう。

糾殺隊の暴力なら私も黙らざるを得ない。命を惜しんで逃げなければならないからだ。しかし査問ぐらいで私の言論を封ずることはできない。今このブログでは実名を伏せているが、不当な言論封殺には、合法的ないかなる対抗手段も辞さない。玄海原発のもとに九州や中四国の人間の命がかかっているのである。

会計や人間関係など団体のプライバシイは守らねばならない。だが運動論や裁判方針などは、公然と討論されなければならない。大衆団体は党派ではないのだから、結果だけでなく、結果に至る論議もオープンでなければならない。党派を含むいかなる組織も官僚的な統制や暴力による抑圧で内部の異論を封殺してはならない。大衆運動の中で民主主義は鍛えられねばならない。自由な言論は民主主義の根幹である。

 明治二年、地元佐賀藩の首班に就いた江藤新平は民主主義でも現代を超えるような構想を持ちそれを実施しようとしていた。すなわち「民政仕組書」である。それによれば、直接民主主義を基盤にして議会と行政組織を確立しようとしていた。

人民は、各戸から200人単位の直接民主主義の議会に全員が参加し、投票で行政担当者を選らび、諸事を審議決定し、行政を質すこともできた。

このような思想を生み出した佐賀での大衆運動は、権力者に民主主義を要求するだけでなく、江藤の構想に沿うような民主主義を自ら実行しなければならない。
党派でも大衆運動団体でも、言論統制は人権侵害であり、してはならない。異論や少数意見の中に真実や勝利のカギが胚胎しているかもしれないのである。

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2016年11月21日 (月)

原発の規準地震動

News & Letters/536

九州の玄海原発に対して二つの訴訟団がある。私が所属しているプルサーマル裁判の会と「原発なくそう九州玄海原発訴訟」の会である。両方に特徴のある有意義な訴訟だ。
だが、共通したものがある。両方の訴状や準備書面を見ても政府「地震調査研究推進本部」の「修正レシピ」又は最近の「新レシピ」が出てこない点である。

他の原発の裁判では住民側が政府作成のそのレシピを強く押し出して、それで計算せよ、そうするとほとんどの原発はそれぞれの電力会社が作成し規制委員会が認めた基準地震動を超過し、再稼働ができなくなる。と主張している

。両方の規準地震動に対する批判、一方では入倉方式はだめだ武村方式を使えという主張、他方では基準地震動が過去の地震の平均像にすぎず、平均を超える地震動が無視されているから、基準地震動そのものが無効だ、という主張はその通り正しいと思う

しかし、その主張に加えて、政府作成のレシピの試算を示すことを入れてもその主張を何も損なうことはないだろう。むしろ、それぞれの主張を補強する証拠となるし、裁判官や一般国民には分かりやすい。規準地震動というのは原発が受けるであろうと想定される最大の地震動のことである。

各原発の定めている基準地震動は政府の作成した計算方式で計算した地震動の数値を大きく下回り、原発施設の耐震性がない、という話は難しい地震学の話が分からない者でもだれにでもわかるし、素人の裁判官に受けやすいだろう。まさか政府の定めている計算方式を裁判官が電力会社と一緒になってこれを否定するわけにはいかないだろう。

裁判に勝利する、原発を止める、ということより以外の目的があるのではないか、という深い疑念を持たざるを得ない

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2016年11月18日 (金)

部落問題と天皇問題

News & Letters/535

期せずして部落問題と天皇問題が取りざたされている。
一つは、部落問題を解消するという法律を制定するという。

もう一つは、天皇の退位をどうするか
「聖と賤」の問題は関係があるという。
今回の部落問題の法案は、よろしくない。部落問題のために特別な行政施策をすること、調査をすることなどを掲げている。

部落問題という特別な施策ではなく、すべて国民に平等公正な行政施策をすることが徹底される必要がある。
旧選民制度の偏見に惑わされて行政機関や司法が差別施策をすることを禁じるという法律が必要なのだ。憲法第14条などのような「社会的身分」に対する偏見差別を
禁ずることが必要である。部落民にだけ特別な施策は有害となる。逆差別的に部落差別が固定化されるだろう。

部落又は部落問題についての特別な「調査」も有害な問題を新たに惹起する可能性がある。もともと部落については何か根拠があったわけではない。

封建時代の支配者も法的にえた、非人の制度を作ったわけではない。土佐藩の元禄大定目という藩法に出てくる身分は武士と町人・農民だけである。
時々の為政者が行政施策として差別を事実的に遂行してきただけだ。士農工商穢多・非人という言葉も明治時代に作られたものにすぎない。

だが、部落差別がないというわけではない。それは厳然としてある。だから差別を禁ずる憲法や地方公務員法などにそれと同じ文句を書いた法令がたくさんあるのである。
憲法第14条やそれと同じ趣旨の条項を持つ法令をまとめて、権力が差別をしてはいけないという趣旨の法律を作るのは意義があるだろう。

特別な施策や調査をすることはやめるべきである。同和対策を利用してあくどい利権の中に部落大衆を巻き込むべきでない。
人は生まれながら平等である。部落民や穢多・非人などというのはもともと何の根拠もない。私もそうだが本人がそれを嫌がっているのだから社会が押し付けるべきではない。

天皇問題。いやだという天皇の意思を無視して無理に皇位に縛り付けようという連中は不敬も甚だしく宸襟を悩ますこと甚だしい。

天皇制を国民が維持したいといっても天皇本人が嫌がっている場合は天皇の意思が尊重されるべきである。さらに天皇制そのものを超えて同じ人間として開放してあげるべきだろう。

ある人間集団が、天皇などという尊称を名乗ること自体根拠のないことであって、はたからサルが見たらおかしいというだろう。

人は生まれながら平等なのである。部落民とか、天皇民とかいうものは何の根拠もないことである。天皇の地位は国民の総意で決めることになっているが、本人に拒否権があることは言うまでもないことである。

部落問題も天皇問題も解決するには何よりも社会がそれを当人に強制してはならない。本人の意思を尊重すべきことが大前提である。
皇室典範が言う男系の後継者が絶えるという絶好の機会が到来するというのだから、天皇制を解消し、皆さんを普通の人間として社会が迎えるべきだ。

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2016年11月10日 (木)

反知性の勝利

News & Letters/534

憎悪と弱者いじめ、金と暴言、反知性が選挙に勝った。
トランプ、フィリピン大統領、金正恩、そして安倍晋三、橋下徹・・・・反知性派たちがこの世を牛耳る時代。

ただ黙然と空を仰ぐのみ。反知性派は、いかなる不合理なことでも、人類の生存がかかるようなことでも狂気のうちに平気で遂行する。

例えば原発推進は、反知性派の象徴的な事業だ。狂った連中がやることだから、なかなか止めるのが難しい。しかもこの連中は政治権力に貪欲である。

民主主義は、この反知性派の優勢的な登場を抑えることができない。理性的人間は、この地上では少ないし、政治活動を疎んずる傾向があるからである。

従来の民主主義に代わる新しい民主主義の思想が必要であろう。

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2016年11月 9日 (水)

誰がために鐘が鳴る

News & Letters/533

誰がために鐘が鳴る

Never send to know for whom the bell tolls,
It tolls for thee.

昨日、プルサーマル裁判の会の佐賀事務所で、先に行われた3県にまたがる原発事故避難訓練の観察報告会が開催され、それらは貴重な学習材料となった。

参加した行政や関係住民のずさんな訓練の姿が映し出され、とても本番では対応できない、何のためにやっているのかさえ分からないものだったということであった。

私が知っている南海地震による津波を想定した避難訓練の方がはるかにましであろう。
なぜこういう結果が毎回くりかえされるのか。
それは段取りが悪いとか、設備が不十分だとか、・・・そういう段階のものではないだろう。

それは原発事故の恐ろしさ、福島事故を対岸の火事のように見ている意識の低さが反映しているからに他ならない。県や市町村の行政関係者が第一に原発事故が起こることについて現実的感覚が全くない。

唐津市役所の公務員や議員のように熊本地震級の地震が原発を直撃しても原発施設の健全性は損なわれない、という見解を堂々と市議会本会議で答弁し、その答弁について誰も何とも反応しなかったのである。

このような危機感のない人間たちが、避難訓練だといって集まっても何ができるだろうか。
だが、問題はそんなところにあるのではない。
その弛緩しきった避難訓練を観察してあざ笑うことはたやすい。
だが、誰が誰をあざ笑うのか。

そのような避難訓練の実態は、この佐賀県周辺の公務員や住民の低レベルの危機感しか持たせなかった我々の問題に返ってくるのではないか。
あざ笑うのは、我々の努力のなさ、われわれのこれまでの運動の姿を笑うことになるのではないだろうか。

後藤曜子(立命館大学出身)さんという人がプルサーマルをやっている玄海原発の事故のシュミレーションを作ってネットで公表していた。
それによると、最悪のシナリオでは、玄海町など原発周辺の3町村数万人の住民は全員急性死亡、旧唐津市8万人のうち7万5千人も急性死亡・・・・という悲惨な想定がなされている。この想定を拒むことができるであろうか。

福島と違って玄海原発の場合は海の方から陸上に風(西風)がほとんど常時吹いている。
放射能の濃厚なプルームは玄海町や唐津市を長時間にわたって完全に飲み込み、佐賀、福岡、長崎をも包み込み、中国四国地方に広がって放射能が人々の肺腑に浸透するだろう。
このような想定をほとんどの公務員も住民も知らない。無知ほど強いものはない

。死が迫っていても泰然として暮らすことができる。この死のシナリオを我々はどれだけ人々に知らせたであろうか。人々は電力会社の金で潤うマスコミの安全神話に浸され続けている。
それに勝る情宣活動を我々はどれほどしてきたのであろうか。

避難訓練のみじめさをあざ笑うのは、我々の運動のみじめな努力の低水準を笑うのではなかろうか。

中世イギリスの詩人牧師が歌うように語った

誰(た)がために弔鐘(かね)が鳴ると思うなかれ、そは汝のためなるぞ。
という言葉を心に響かせば、人を見て笑っている場合ではないだろう。

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玄海町民の監査請求書

News & Letters/532

玄海町民による反撃が始まった。玄海町長岸本に対する住民監査請求です。
原発5キロ圏内の住民の健康診査が昭和48年~平成22年まで行われていた。
約3000万円の公金をかけて実施されたが、その報告書は一切公表されず、破棄または隠匿されてきた。

開示請求しても、保存期間を過ぎて不存在という回答である。
玄海原発周辺の住民の健康状態についてはすでに森永徹氏が統計資料を使って明らかにしており
原発から放出されるトリチウムが原因で白血病の異常な罹患率として表れていた。
玄海町の健康診査も森永氏の分析結果と同じものが出ていたと強く推定される。
それがゆえに玄海町長と九電はその診査結果報告書を抹殺しようとしているのであろう。
監査請求書は、藤浦町議らによって明日朝9時に玄海町監査委員に提出される。

玄海町職員措置請求書(住民監査請求書)

                   2016年 月  日
玄海町監査委員殿
                   請求者
                       住所
                      氏名
                    同
                      住所
                      氏名                          
                    同
                      住所
                      氏名
【請求の趣旨】

玄海町は、岸本英雄町長の公文書(「北部地区健康診査」報告書)の違法な破棄により、その文書作成に要した2921万3446円相当の損害を被っている。
また岸本町長らの違法行為により、医学的見地からも高い評価を得られる価値ある著作物である上記報告書について、少なくとも1千万円相当の著作権益を喪失した。
よって、玄海町は岸本ら関係職員に対し上記合計金額を玄海町に支払うよう請求する義務がある。

【請求の理由】

一、添付資料の通り、「北部地区健康診査」(これを単に診査と呼ぶ)は、玄海原発周辺直近の地域住民に限定して昭和48年~平成22年までほとんど毎年実行された。
玄海町はこの診査のために上記の公金を出費した。

この診査の目的は、時期や対象地域から見て新設された玄海原発(昭和50年1月28日臨界)から発する放射能の、地域住民の健康への影響について明らかにし、これを行政施策の参考にすることであった。このような診査が正規の行政機関で行われたのは全国ではこれ以外には存在しない貴重なものである。この診査の結果について岸本町長が議会や住民に全く報告もせず、秘密のうちに破棄またはそれと同等の処理をしたことは重大な背任的違法行為である。

その行為は、単に一文書の破棄にとどまらず、その長期にわたる診査とそれを集約した報告書の作成には上記の費用を要したのであるから、その公金を捨て去ったも同然であり、同額の損害を玄海町に被らせたものである。
また、その破棄行為は、同報告書が国内だけではなく国際的にも貴重な学術上の成果であることから極めて高額な著作権益を台無しにしたことになる。玄海町は、岸本町長ら関係職員に対し損害賠償の請求権を行使すべきであるがこれを怠っている。

二、玄海町議会議事録(平成28年3月議会)によると、この診査は、堀田医院など地元の医師たちに委託されて実行されたという。平成22年に終了した際に委託先から報告書が届いたというが、住民の健康には問題がないということで報告書が委託先に「回収」されたとの岸本町長の答弁があった。(町職員は請求人に対し初めはプライバシーにかかるので公開できない旨の口頭での回答をしていた。)
しかし、最近の請求人らの情報開示請求に対して、町側の通知書では厚生労働省令の5年の保存期間が過ぎているので、保存していないという回答であった。

三、しかし、玄海町文書規程第31条の文書の保存期間(別表第3)や32条の保存年限の計算では、その報告書は未だ保存期間中であった。すなわち、文書規程31条別表第3では、「重要な調査又は統計関係文書」は永年保存か又は「行政執行上必要な統計関係文書」と考えても10年の保存の義務があるものである。本件診査はその性質からして永年保存に当たることは明らかである。

もし仮に5年の保存義務としても請求人の藤浦が町議会で質問した時点(平成28年3月)、また、情報開示請求の時点(同年10月18日)では、その報告書は保存期間中であった。
保存期間中の公文書を確保しなかった事実、誰かに「回収」させたり、まして保存期間中に破棄した事実は、文書の破棄の刑事犯罪に該当すると思料する。

四、玄海原発周辺の住民の健康については、すでに森永徹氏の研究論文が存在していて、玄海町及び唐津市などでは白血病の罹患率が原発稼働の前に比べ稼働後に異常な高数値が出てきているという指摘がなされている。これは政府が発表している統計資料に基づくものであって何人も否定できない。森永氏はこの異常な数値の原因は玄海原発の異常に高いトリチウムの放出に原因があるのではないかという推定をしている。

福島第一原発など事故を起こした原発からの放射能の汚染は事故後も日に日に深刻になりそれが拡散して収まりがついていないが、事故を起こしていないとされる原発の通常運転で周辺住民に看過できない被害を及ぼしているとなれば、重大な人権侵害であり、そのことは本件診査報告書にも何らかの痕跡を残している可能性が高いと考えられる。
住民の生死にかかわる第1級の重要な疫学的調査の結果を違法な方法で破棄したことは天人共に許されない行為であり、その住民の健康上の損害額は本件請求額の何十倍にも登るものである。

  添付資料1  「北部地区健康診査に要した費用」(玄海町役場作成)
  添付資料2  玄海町議会議事録
  添付資料3  玄海町文書規程第31条別表第3
  添付資料4  森永徹 「玄海原発と白血病」

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