2020年2月26日 (水)

新型コロナウイルスの猛威

中国を発生源とするコロナウイルスが中国以外に日本、韓国、イタリア、などに広がり始めている。感染の勢いが簡単に収束するとは思えない。政府や医療関係者たちに有効な打つ手がない。

マスク着用とうがいと手洗いの励行の三点セット、それに外出を控えること、人ごみを避けることぐらいの対策を国民に呼びかけるぐらいしか手がない。

最初の三点セットも国民はどのくらい実行しているか、高知市などではほとんどの通行人はマスクをしていない。

外出を控えるとか人込みを避けるなどは国民の大半は不可能なことだ。
職場に出なければならないし、学校や保育園に子供は通わねばならない、年金暮らしのお年寄りや生活保護受給者も買い物にスーパーやコンビニに行かねばならない。現在では世界中の人が国境を越えていたり来たりしなければ日常生活が回転しなくなっている。今では、ウイルスが蔓延するのを防ぐのは至難の業でほとんど不可能だ。

東京オリンピックを開催しどころではない。ここ数カ月で少し収束に向かうかもしれないがオリンピック特に室内競技によって感染が爆発的に伝染する可能性がある。大相撲など室内競技は止めるべきだ。野球場か砂浜でやればだいぶ感染が防げるかもしれない。

しかし、エイズやサルスとか今回のウイルスの蔓延の連続には根本的な対応が必要である。
これを制御するには日常生活を劇的に変更しなければならない。というよりも文明の在り方、人類の生活様式を根本的に変革しなければならないだろう。

会社や工場などの働き方、スーパーや百貨店などの大規模な消費者の集合、何百何千人の子供たちを強制的に集める義務教育学校や高校・大学など教育施設、飛行機や電車、バスなど交通機関、映画館やコンサートのホール、教会、大型クルーズ船・・・・

こういった現代の人類の生き方は、病原となる感染性のウイルスにとっては非常に好都合なのである。
そして、特に中国などのような強権的な全体主義国や日本のような腐敗した権力が長く続いている社会下の人間たちはウイルスの宿主としては最適なのである。なぜなら、防疫にあたる政府が国民の健康よりも何か別のことに熱中しているからである。人類は、小集落で極力自給自足で牧歌的な生活をしておればこんなことにはならなかっただろう。

次々と発生するウイルスは人類の繁栄の仕方を考え直せと我々に迫っているように思われる。
・・・・・・・・
私は、風邪の予防には紅茶が良いというので何十年も紅茶を毎日飲んでいる。
インターネットでも紅茶の効能として風邪ウイルスの殺菌効果があると解説されている。紅茶でうがいをするのも効果があるといわれる。

また、断食をすることによって免疫力が高まり風邪をひかなくなるといわれているのでここ五年間ぐらい夕ご飯を食べないようにしてきた。結果、毎年数回は風邪で高熱に襲われて苦しんできた私が全く風邪をひかなくなった。

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2020年2月22日 (土)

森友学園籠池夫婦の補助金裁判

先日第一審大阪地裁の判決で籠池が有罪となり夫は実刑5年,妻は猶予刑で3年であった。新聞の評価では、森友事件の核心は、学校敷地の総理夫婦、国交省の関与、文書の改竄問題だということで、この裁判の補助金についての裁判所の判断については殆ど論評されていないから、裁判の真相がよくわからない。

だから、推定するしかない。
補助金を詐取したという罪である。
一つは小学校建設の工事費の水増しで国から5600万円かすめた。
もう一つは、幼稚園の運営費で教員数を水増しして大阪府・市から1.2億円かすめ取った、というものである。

しかし、補助金交付の制度の運用が厳格であればとても工事費や運営費の水増し請求が通るはずがない。
もし補助金が詐取されたというのであれば、だまされたほうの責任の方が大きい。
補助金請求の内容については行政側は調査し真実であるかどうか判断しなければならない。

工事費の水増しや教員の水増しなどは調べれば簡単に判明することであってそれが分からなかった、だまされたなどということ自体行政として恥ずべきことだ。

第一に、行政がだまされたのではなく、調査しなかった、あるいはわかっていたが許した、その小学校の特異性から忖度したという可能性がある。総理夫人が背後にいたということ、国粋主義的教育を援護する観点から審査なしに通した可能性がある。これこそが犯罪であり背任罪だ。

第二に、補助金が過大に交付したということが分かった段階で補助金返還の措置命令をしなければならず、返還してもらうか、返還の約束をしてもらうかして事件を解決しなければならない。

それらは補助金交付条例の範囲の事柄であって、刑事事件になる問題ではない。
したがって、責任は籠池側ではなく、まともに審査もせずずさんな補助金交付をした大阪府市の首長の責任である。

国の場合も同じだ。
的外れな今回の判決ではすでに破産した籠池夫妻から補助金の損害は回復できないだろう。

私が大阪市民であったなら当時の大阪府・市の首長を相手に損害賠償の住民訴訟を起こしただろう。

籠池の森友学園への大阪府市の補助金行政の過失責任は明白であった。
市町村の補助金交付行政は極めてずさんであり、利権化している場合がある。
私は東洋町長の折、数件の乱脈だった補助金交付を厳格化した経験がある。

利権化した補助金は、もらう側(申請者・受給者)を罰するのではなく交付する連中に制裁を加え賠償させなければこれを根絶できない。

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2020年2月16日 (日)

検事長の定年延長事件

東京高検の検事長の定年問題が重大な政治問題となってきたのは当然である。

時の権力が司法を思いのままに動かすという深刻な事態の背景には、日本の民主主義の脆弱性が横たわっているように思われる。

第一に三権分立ということの法的根拠が明確でない。日本国憲法ではそれが明示されていない。
むしろ、一権独裁という感じだ。国会で多数派が内閣を構成するから総選挙後直ちに立法と行政の2権が多数党に取られる。

そして最高裁長官もその判事も総理大臣が人事権を持つから司法も取られ、三権が一権(行政権)に収斂される。

それまで高級官僚の任命などには政府は遠慮していたが五年前の内閣人事局の設置によって官僚組織の首根っこが押さえられた。

私は提案する。日本国憲法の精神は明確だから、法律で三権分立を明確に定めるべきである。

そして、内閣の人事権が司法に及ばないこと、検察庁を含む各省庁の官僚の人事権にも内閣が干渉できない
ことを明確にすべきである。そして官僚についてもキャリア・ノンキャリアの差別を撤廃すること。

ここで憲法第15条第1項が重要である。

憲法は、国民固有の権利として国民が公務員を選任、罷免するとなっている。
しかしその実施方法を担保する法令がないので空文化され、憲法上何の権限もないのに総理大臣や首長が勝手気ままに人事権を振り回し、三権分立の建前をぶっ壊しているのである。

15条が言うこの公務員というのは、何も公職選挙法で選ばれる議員や首長に限られていることではない。

野党は、政府の独断専行・法令無視についてその度に驚いて異議を述べるが、そのような消極的な姿勢ではなく、日頃民主主義を保証・補強する法令を提案するなどもっと積極的な攻勢を持つべきだ。

私は、10数年前小さい町の首長であったが、毎年の人事異動については、まず全職員の希望をアンケートにとり、実際の移動の調整については総務課長にやらせ、特別に不適任と思われる場合以外は、口出しをしなかった。

選挙で選ばれ政治性を持つ首長が人事を切り盛りすれば必然的に中立であるべき行政職員が党派性を帯びるからである。

選挙で選任する場合とは違う憲法で謳われた国民の公務員任免権が空疎になっていること、これが、今回の検事長問題の基底にある。少なくとも、国や地方自治体の不法行為や不公正な公務員人事について国民が、現在の住民監査・住民訴訟制度程度のチェックができるような制度を作るべきだ。

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2020年2月14日 (金)

上皇

天皇の退位についての皇室典範特例法によれば、退位した明仁は上皇となり、后も上皇后となる。

上皇とは太上天皇のことであり、歴史的には場合によっては天皇をしのぐ権威と権力を持つ。

第一に、日本国憲法第1条では天皇の地位は国民の総意に基づくと規定されている。上皇などという存在と尊称は憲法にはない。憲法にないものを皇室典範、その特例法で設置を決めることができるであろうか。

その地位は国民の総意に基づくとあるが、国会の議決が国民の総意といえるだろうか。国会議員の選挙で天皇の地位について公に議論されたことなど一度もない。

憲法第2条で皇位は世襲であると規定されている。第1条は直ちに第2条で否定されていて、国民の総意ま何もないが、すくなくとも同時に二人の天皇を祭り上げるということにはならない。天皇は退位すればすべての公の行事から姿を消し神がかった虚飾から解放されて一国民として自由な生活が保障されるべきである。

天皇の国事行為の最も欺瞞的なのは、戦没者への慰霊旅行だ。
先の大戦で罪があったのは裕仁昭和天皇であって、明仁天皇には無関係だ。だから太平洋諸国や沖縄などへの戦没者慰霊の旅はする必要はない。必要なのは、天皇による慰霊でなく、天皇を含む日本政府および日本国民による謝罪と賠償だ。

私は十数年前室戸市の姉妹都市オーストラリアのポートリンカーンへ交流団の団長として高校生らと一緒に行き、10日ほどそこに滞在した。最初のある高校で私があいさつした。先の太平洋戦争のとき、日本軍がダーウインなどに空爆を加えオーストラリアの市民に多大な犠牲と損害を与えたことについて、私は日本人を代表して謝罪した。

そうすると、私の英語が通じたと見え、そこの数百人の高校生を囲んでいた保護者や市の関係者たちが私の周りに集まってきて  
Greatly impressed!と口々にいって、日本人から初めて謝罪の言葉を聞いた、といった。

日本人は中国や朝鮮はもとよりアジア太平洋諸国のどこへ行っても侵略戦争へのapology を忘れてはならない。

天皇であれ上皇であれ、天皇裕仁が先導した侵略戦争の犠牲者の霊魂に対しては慰霊ではなく謝罪が必要なのである。

なお、天皇制存続、女帝の皇位継承などについては憲法改正に準ずるものとして憲法96条の国民投票が必要であり、国民の総意が示されねばなるまい。

その時国論が二分されるようでは、天皇制は維持できないだろう。総意は過半数とか三分の二以上というようなものではない。

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2020年2月10日 (月)

伊方原発の連続事故

本年1月に四国電力伊方原発MOX燃料をも燃やす3号機で信じられない重大事故が続けざまに起こった。

高知新聞の記事からみると

①1月12日:予定外の制御棒1体が原子炉から引き抜かれ7時間も放置された。
使用済みMOX燃料を取り出す準備で核燃料を固定する装置を引き上げているとき、制御棒1体も一緒に吊り上げた。

②1月20日:使用済み核燃料のプールで燃料が点検装置にうまく挿入されず、装置の枠に乗り上げ、
燃料落下の信号が作動した。燃料損傷の可能性も懸念。

③1月25日:定期検査中、午後3時44分外部電源が遮断され発電機が作動するまで原発内の電源が失われた状況が10秒間
続いた。それは具体的には、

*原発施設への送電線の部品取替え中、異常な電流を遮断する装置が作動した。

*送電線への四つの回路のうち一つから、通常は発生しない放電に伴うガスが検出された。

④その日1月25日、午後4時27分最後に核燃料プールのポンプの電源を再起動したが、その間43分間核燃料プールの冷却装置は機能せず、水温は33・0度から34・1度まで上昇した。

この燃料プールの冷却装置の長時間の停止については、翌月2月になって初めて明らかになった。

これら①~④の事件について原因はわかっていない。

この事件が発生中、1月17日に四電は、広島高裁で伊方3号機の運転禁止の仮処分決定を食らっていたがその判決を別の形で自ら実証した。

その実証は、地震や火山など自然災害などによる外的な要因による原発の危険性ではなく、原発を運転する技術的な人的要因による危険性の実証である。

これまで、原発については、その電力会社の運転技術・管理能力については、完全であるとの前提で論じられてきたが、その前提が崩壊した。もともとそんな前提を担保するものは何もなかった。

伊方の今回の連続事故は、伊方だけでなくすべての原発の問題である。運転技術については、国民の側には、実際の事故を見せつけられる以外に、検証の方法がない。

何もないのに、原発内の電気がすべて無くなった、何もないのに原子炉の制御棒が長時間引き抜かれた、地震も津波もないのに、燃料プールの冷却が停止した、・・・・誰が枕を高くして寝ていられようか。

バカ殿さまとそれに服従する家臣たちの運営する城下で民百姓は戦々恐々と暮らすしかないのか。

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2020年2月 9日 (日)

コロナウイルスの感染

中国が発生源といわれるコロナウイルスの蔓延・封殺の失敗は
第一に、中国スターリン主義体制(全体主義的社会主義国家)の強権的官僚制に原因がある。

いくら良心的な医師らが現場で警鐘を鳴らしても最高幹部が危機感を抱くまでは、対処されない。

国民の健康などまともに考えたこともない病的に腐敗した権力者の支配が続く限り、スターリン主義国家では、このようなパンデミックは繰り返し起こるだろう。

このウイルスの発生は食用として小動物をも売買する大衆的な市場の低劣な衛生状況を根源とするといわれる。

豪華客船のお客が騒がれているが、り患しやすいのは貧しい人民であり、ホームレスや病弱な人々だ。

貧しい無権利状態の大多数の民衆、放置された低劣な生活環境、そして独裁的な権力者の存在、この三つがあるところ常に致命的なpandemic が発生し、多くの犠牲者が出てくる。

安倍独裁が続く日本政府(地方の市町村も同じ)の対処もマスクが払底する状況を見ても明らかなように習近平と同程度の鈍感さだ。
徹底した民主主義政治が欠如するところでは、死ななくてもよい場合でも死ななくてはならない。

民主主義は、人民の命を救い、村や町を救う。

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2020年1月24日 (金)

県立図書館の高松控訴審の控訴人(澤山)の最終陳述

県立図書館の高松控訴審の控訴人(澤山)の最終陳述を掲載します。
数万冊(3億円以上)の大事な図書を焼却するという暴挙に対して、誰もその責任が問われず一銭の償いもされない、このような異常な状況を突破するために住民訴訟を提起した。

県側は、屁理屈を並べて抗弁し、高知地裁はこれを丸呑みして訴えを棄却した。このような無法な行為を裁判所が認めるとすると、法律も裁判所も国民には不要ということになる。


 令和元年(行コ)第25号 損害賠償控訴事件
 控訴人 澤山保太郎
 被控訴人 高知県知事尾﨑正直

高松高等裁判所殿
                  令和元年12月25日     
                  控訴人 澤山保太郎
   
   控訴人準備書面(1)上

控訴人は、準備書面(1)を上下に分けて陳述する。
答弁書について

一、本件図書は「出資等に係る不要財産」に該当しないのか
被控訴人の主張の中核は、本件図書数万冊が1冊1冊に分割されて帳簿に登録されていて県条例が定める50万円以上の価格に当るものはない、したがって地方独立行政法人法の第42条第1項がいう「出資等に係る不要財産」に該当しない、というものである。

この主張は何度も繰り返され答弁書3頁に2か所、4頁に1か所、5頁に1か所、被控訴人の主張はもっぱらこの抜け道に依存しこれを金科玉条にしている感がある。

たとえば、答弁書2頁~3頁で、控訴人の主張(大学法人の日常業務を指揮監督する立場にある高知県が法令に基づいて所定の手続きを大学法人に取らせ数万冊の図書を回復する義務がありそれをしなかった怠る事実の違法性を指摘)に対してまともに答えず、「出資等に係る不要財産」に該当していない話で反論したつもりである。

このことは、1冊1冊ではなく本件蔵書の処分額(処分時の時価)と冊数は明示されていてこれが裁判所によってまともに財産として認定されたなら、怠る事実の違法性も直ちに明らかとなるということである。控訴人は、怠る事実について他に何の反論もしないからである。帳簿価格50万円・・・の話は、購入に数億円もかかった数万冊の書籍を、要らないとして、紙くずとして㎏単位で焼却処分した犯罪行為を許した、その責任を逃れる、脱法の口実を発見したということだろう。

しかし、

1、本件図書はなるほど購入時に1冊1冊購入され帳簿に載せられたものであろう。
しかし、問題は処分時にどのように扱われたのかである。処分時には紙くずの塊として把握され業者に渡された。受け渡しの書類(伝票甲  号証)にそのように記載されている。
少なくとも数千万円以上のものが0円で引き渡され、重量で計量されたのである。

本件書籍は1冊1冊ではなく、2万5千余冊が一塊の紙料として扱われた。
 原判決も、「複数の図書をまとめて除却処分した」ことを認めている。
 
2、しかし、その処分の直前までは、中古品として1冊1冊の値踏みがなされ、総額2972万余円と計上された。大学法人の除却の決裁は14たびに分けて行われた。何十冊、何百冊、とまとめて除却が決定され、そのたびに「資産登録価格」が計上された。(甲第3号証の1~14)

「資産登録価格」は帳簿価格である。控訴人の請求額の一部の2972万2479円は、甲第3号証の「資産登録価格」を集計したものである。本件処分対象の相当冊数がそれぞれまとめて帳簿価格に明示されているのにそれを没却して法廷に証拠として出されてもいない個別の価格をのみ取り上げるのは、理不尽であろう。

 図書又は書籍、図書館などでは蔵書とも呼ぶが、1冊1冊として扱うこともあり、また、蔵書(図書、書籍)として集合的、総体的に取り扱う。さらには幼児用の蔵書とか歴史学上の蔵書とか、工学系統の蔵書・・・などいろいろな蔵書学上の分類による種々の取り扱いがある。その蔵書は1冊1冊の値段を見ることもあるが、ある一定のまとまった蔵書の価格を総体として計算し資産として帳簿に記載することもある。

高知県立大学・高知短期大学図書管理細則(甲第6号証)第17条3項では、「図書資産台帳の金額と財務諸表の図書資産の金額とは、常に一致させるものとする」と規定されているが、これらの金額は、数万冊以上の蔵書を一定の金額に収斂して掲示するものである。

図書資産台帳や財務諸表は帳簿であり、そこに表示されたものは帳簿価格であって、図書又は蔵書の価格は、帳簿に個別に記載されもするし、集合的に蔵書として総体的にかまたはその1部が集合的に記載されるのである。
本件では、甲3号証にみる通り処分対象図書が総計何百何千冊とひとまとめにされその都度価格の合計が記録されていた。むしろ本件処分を決定する段階では、書籍の個別の価格は問題になっていなかった。

3、被控訴人は原判決を根拠に、何か蔵書という言葉は法律用語ではなく、「蔵書なる概念は極めて不明確であり、公共団体の財産管理においては到底使用できないものである。」(答弁書7頁)などという。しかし、図書館の財産である書籍の管理・整理はまさに蔵書学(図書館学)という学問分野であって、世界中の図書館で図書(蔵書)という財産が系統的に管理されている。高知県のオーテピアという図書館でも蔵書学・図書館学の書架がある。蔵書についての原判決や被控訴人の独自の見解には、何の合理的な理由もなく、何か理解しがたい偏奇を感ずる。蔵書が嫌なら図書とか書籍と言い換えてもよい。

本件の場合学長の謝罪文(甲4)や、県庁のホームページや高知新聞(甲5)などで本件に関連して蔵書と呼ばれているのは、明らかに複数書籍の集合名詞としてである。
 蔵書は本の集合として使われるがまた図書館や個人の書斎に所蔵されているものは1冊でも蔵書と呼ばれる。

4、蔵書という言葉に限らず、日本語の普通名詞の多くには、単複の区別がない。1個でもリンゴであるし、木にたわわになっている数十個のリンゴもリンゴである。

  人、車、お菓子、ボール、パソコン、花・・・・無数の物の名前・・それらは集合的に使われたり単数として使われたりする。被控訴人や原判決が、蔵書を意味がつかみがたい曖昧な言葉、「不明確」な言葉、果ては法律用語ではないなどと非難するが、それでは他の日本語はどうなる。花は1本1本値段がつけられる。また花束としていくつもの種類の花がまとめて売られることもある。花を束にして値段をつけることを非難できるだろうか。蔵書をして被控訴人のように非難するなら、ほかの日本語も同様に非難される。それでは、裁判で日本語の普通名詞を使えないことになり、事実を認定することも否認することもできない

 5、図書館の蔵書の価値

被告や原判決は、本件処分対象の書籍には1冊50万円を超える本はありえない、という。帳簿価格は1冊1冊だ、という。しかし、
個人が購入し個人が所蔵している書籍と図書館所蔵の書籍では、その使用価値が全然相違する。例えば1000円で購入した書籍は、個人の場合は一人だけの使用価値であるが、図書館の購入に係る書籍は、100人~1000人・・・が次々と繰り返し読み継がれ利用される。1000円の価格が100万円以上の使用価値が出てくる。
  図書館の1冊の本は、普通の本の価格では量られない高い有益性を持っている。

6、たとえ1冊1冊について勘定するということを仮定にしても、「出資等に係る不要財産」に係る高知県の条例(「高知県公立大学法人に係る評価委員会及び重要な財産に関する条例 第9条)の規定においては、たとえ数千円単位の図書であってもそれが数万冊束にして処分され、しかもその1冊1冊でも数千人以上の市民が利用する公益性の高いものであると判断すれば、前掲条例で返納すべき額の規定(50万円以上)のその後の文章に「その他知事が定めるもの」との但し書があり、被控訴人は当然この規定を使って本件処分対象の書籍を救済する義務があった。図書館の1冊の書籍の価値は、本屋の1冊とは違うのである。

ちなみに、本件処分対象となった書籍のうちには、貸し出し中のものまで入っていた。甲第3号証の6には、大学法人の職員のメモ書きが記されていて、「貸し出し中で除却ができない図書が3冊あり・・・」で再度決裁をお願いするなどと記されていた。1冊1冊を吟味して処分を決定したのであれば、このような事態は起こりえない。機械的に(量的に)処分を決定をしていた様子が垣間見える。

 7、被控訴人の蔵書概念

被控訴人は蔵書の意味をどうとらえているのか。答弁書で、
また、①「蔵書」についての明確な定義が存在しない以上、②「蔵書」を単位にした場合には、「帳簿単価」も判然としないことになる。このため③「帳簿価格が50万円以上のもの」に該当するか否かによって権利義務が決せられるという場面においては、「蔵書」の概念を用いるべきでない。という。(答弁書5頁~6頁 ①②③は控訴人)

①「蔵書」の明確な定義が存在しない。
②「蔵書」を単位にすると「帳簿単価」も判然としない。
③帳簿価格が50万円以上のもので権利義務が決せられる場合は、「蔵書」の概念は不可である。ということになる。

②「蔵書」の定義が明確ではないのであろうか。蔵書とは読んで字のごとくであり、蔵にしまってある書籍のことだ。国語辞典でも明確だ。
 「蔵書」は何も複数とは限らない。本件の場合「蔵書」と大学など関係者が呼んでいるのは、一定の分類目的(処分目的)の数万冊の書籍のことであるが、被控訴人はそのような集合的なものとしてはどうしても認められないのである。

「蔵書」を単位にした場合「帳簿単価」もわからなくなるとはどういうことであろうか。蔵書は1冊づつ帳簿に搭載されもするし、ある分類によっては集合的にまとめて整理されたりする。購入図書の予算の審議で、例えば歴史関係書籍を何冊購入すると歴史に関する蔵書は、何冊となり、蔵書の冊数だけでなく暦年の予算規模も計算されるやもしれない。被控訴人や原判決の理解する「蔵書」は、常に集合的なものとして「蔵書」をとらえているようだ。
図書館の特定の1冊も蔵書であるが、今日の図書館では蔵書構成(蔵書構築ともいう)という体系的な概念で蔵書を管理しており、図書を集合的に管理している。

全国学校図書館協議会では、毎年小中学校・高等学校別に、全体の蔵書数の最低基準を決めており、また、総記とか哲学、歴史等々分野別にも蔵書比率を決めている。
購入費についても同協議会が毎年基準値を示す。(「学校図書館メディア基準」)

図書館の書籍は蔵書構成として集合的に管理される。これが図書館の財産管理・財務会計行為であって、当然蔵書の管理運営上の権利・義務はここに発生する。
だから、被控訴人が蔵書を集合的にとらえるのは間違いではないが、50万円以上云々の話に付会させるためにどうしてもこの蔵書という言葉をなきものにし、1冊1冊の勘定にしたいのである。

③:帳簿価格は何も1冊1冊の価格を言うだけではない。甲3号証のように一定分量のまとまった図書(蔵書)の価格を記載する場合もある。ある種類の一定分量の図書(蔵書)をまとめてその総額を帳簿に表記してはならないという財産管理上の規則はない。
8、ところで②で被控訴人は本件条例中の「帳簿価格」を「帳簿単価」という言葉にすり替えている。「帳簿価格」は、「帳簿単価」と同一ではない。

 機械の部品を一つ一つ単価で記載する場合もあれば、それらを一定の用途に必要な分量を一括して帳簿価格として記載する場合もある。例えば予算書にしても書籍購入費は一冊一冊単価を載せず、年間数百冊、数千冊を一括してしかるべき金額を計上するであろう。財務会計行為では物品は集合的に集計されて表現されることが多いのである。

 本件の場合、控訴人が個別の書籍の金額を総計して出したのではなく、甲3号証の「資産登録価格」に基づいて主張(請求)しているのであって、これは、大学法人自身が出したものであり、開示された資料に明記されたものである。本件図書の価格についてこれ以外には法廷には何も出されていない。原判決は、確たる証拠もないのに1冊1冊の書籍の価格について被控訴人の主張をうのみにしているだけなのである。そして答弁書は、根拠のないその判決文を金科玉条のように繰り返している。

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2020年1月 2日 (木)

謹賀新年

新しい年を迎えたが、何の感慨もない。

私は昨年3月29日に何者かによって家が焼かれ、焼け残った離れの一室に新たに物置を手作りで建ててなんとかこの身を収容し生活する場を確保した。

その間、裁判三件を続行し、地元の困った人の手助けをしながらなんとか生きている。これまで絶望的な状況に何度か陥ったことがあるが、最も酷烈な打撃を受けた。

中でも大事な本がほとんど灰燼に帰し、また3台のパソコン全部が焼けて、フロッピーディスクやUSBなど保存していたあらゆるデータが消えたことは、痛恨であった。まるで戦災に会ったようだ。

通報があり駆けつけて燃え盛る火の中に私は入ろうとした。それはフォイエルバッハの原作著作集をそれだけは取り出したかった。
だが、私服の警察数人が私を強力に抑留し一歩も家には入れなかった。年齢も高く、肉体も衰えた。絶望の中から私は立ち直れるだろうか。

わかっていることは、私はオンブズマンを続行すること、部落問題を研究すること、現代の政治問題、とりわけ原発問題にかかわり続けることである。私はケチではないが、質素倹約的生活が好きである。昔の子供の時代のつつましやかな生活が好きなのである。最期は誰にも迷惑をかけずに死ぬことだ。

だが、この汚濁に満ち、人類的危機が迫るこの世界をこのままにしては死ねない、悪党どもを一人でも多く粛清しないでは冥途の旅には出られない、そう思っている。イタリアパルチザンの歌を歌いながら日課の庭内散歩をしている。

新年に臨んで悪政に苦しんでいる人々に少しでもいいことがあるように祈っている。

私には七難八苦がこようともびくともしない。

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2019年12月14日 (土)

高松高裁

ビキニ環礁水爆被災の船員たちの訴えは、高知地裁に続いて高松高裁でも棄却された。
その内容は不明だが、テレビのニュースでは冷酷な判決だったようだ。

裁判所は、権力の使徒である。そのことは三権分立など制度上の煙幕で隠されてきた。

しかし、最近はその煙幕を払いのけてあからさまになっている。
裁判所は、行政権力の意向を忖度する、という風に言われてきたが、むしろ、行政権力の意思とは関係なしに、人民抑圧機関として独自の姿容をあらわにしてきた感じだ。

最近高松高裁へ入ったが、玄関口に物々しい身体検査の関門が設置されており、私物を調べたり人権侵害行為を大っぴらにやっていた。これまでになかったことだ。

裁判官をこそ検査すべきだ。彼らは六法全書ではなく銃剣で武装している。

被曝という事実は、通常の法令上の期限や制限を超え、日常の人間の約束ごとを超越する重々しいものだ。

被爆者を救済する方法はないか、人の痛みや感情を法条に転訳できないか、苦しんだ形跡は皆無だ。
まるでパンを求める群衆に石つぶてを投げつけるようなものだ。

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2019年12月 1日 (日)

ファミリーヒストリーに抗議する


NHKの番組にファミリーヒストリーというのがある。
週1回月曜の夜7時半ごろにやっているようだ。何度か見た。

何代もの家族の歴史をたどり今の自分を考える企画は大変意義があり他人のものでも興味深い。

だが、自分の家族や先祖について知られたくない人にとっては、恐怖となる。家族の歴史は、プライバシーの中のプライバシーだ。士族とか平民とかの戸籍上の身分もテレビに映し出されてくる。

職安など雇用や労働関係の当局、また市町村役場では、採用試験の折には、決して旧身分や本籍地、国籍、家族の職業や資産等について履歴書に記載させたり、面接のときに尋ねたりしてはいけない、ということになっている。雇用における差別は部落差別の最大の問題であった。

NHKのファミリーヒストリーの番組は、人権の流れに逆行し、平然として旧身分を暴露する。
今まで新平民とか新民とかいう旧身分は出てないが、士族という身分のファミリーはいくつも映像に出ている。
旧身分制が肯定的に報道されたら、不当に卑賎視された旧身分も肯定される。

ファミリーのヒストリーはプライバシーであり、自分や個人がそのあとを探索するのは自由だ。
だが、本人の同意があるからといって旧身分まで明らかにする必要はない。

今までこの番組に批判がないのが、不可解だ。現在部落差別は厳然と存在している。

NHKは、家族の歴史(旧身分)が世間に知られることを恐れている多くの国民がいることを知るべきである。
映像で少なくとも戸籍を洗い出し旧身分を摘示することだけは即刻やめるべきである。

旧身分を肯定的に報道するNHKのファミリーヒストリーの番組は、憲法第14条に抵触していると考える。
現代の日本の法律では、皇族以外の身分はすべて廃止されている。

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2019年11月30日 (土)

尊王攘夷

新天皇の即位をめぐる狂騒曲がやっと静まった。
今時、天皇族を崇め奉ることに日本国民はどれ程反応しているのであろうか。

ばかばかしくて見ていられないというのが本音であろう。

しかし、ばかばかしい行事もこれほどまで銭をかけ、大掛かりな虚構をうやうやしくやっていると、本当に威力を発揮することになるかもしれない。

歴史を振り返ると、なおさら空恐ろしい。
幕末の基本スローガンは尊王攘夷であった。
この四文字には、王と夷が対句になっている。一方はあがめられ、他方は卑しめられ迫害される。

もともと攘夷の夷は、蝦夷の謂いであってアイヌを含む東北以北の民衆のことだ。

幕末において異国人を軽愚して敵対するために伝統的な蝦夷への蔑視・敵愾心を借りてそれを利用した。東北の民衆への差別心を外国人に向けたのである。

平安時代以前から日本の朝廷や武家政権は、蝦夷・奥州俘囚への激しい差別心をもって政治の要諦としてきた。桓武天皇らは蝦夷征伐と都建設を最大の政治的課題にしてきたし、鎌倉、室町、江戸幕府の権力の中核は征夷大将軍であった。蝦夷への蔑視と天皇や将軍への敬意は絶えず一本に結ばれていた。現代の皇室への尊敬(特別な敬愛)は必ず他方に軽愚され抑圧される者がいるはずである。

今も東北の民衆は原発の業苦を背負わされ犠牲に供されている。
そしてまた遠い昔全国数十か国に配流された奥州俘囚の裔孫である部落大衆、その被差別の忍苦の生活も続いている。
天皇一族の晴れやかなパレードを見るにつけ情けない思いが突き上げる。

支配階級の権力の象徴である天皇とその天皇制に対し、日本国民は、いかなる敬愛の念も抱かず、その血塗られた歴史(崇徳上皇は配所で血書でもって天皇の皇統を呪うと誓った)の実相を直視し心の武装を解いてはならない。

     解放歌の一節

ああ、虐げに苦しめる 三百万の兄弟よ
踏みにじられしわが正義 奪い返すは今なるぞ
涙は憂いの為ならず 決然たちて武装せよ

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2019年11月 9日 (土)

選挙

革命的立場の選挙闘争には次のような意義がある。
政治宣伝の場として使う。選挙戦を通じて今持っている情報や資料で敵権力の実態を暴き、労働者人民に
敵の攻撃に備えさせる。

もし当選すれば、これまでとは比較にならない敵の状態、人民の生活や人権の状態の情報が手に入るから、それを分析し、人民に知らせ敵権力を追及する、そういう権能が得られる。

当選することを自己目的にすることは、結局金や名誉を目的にしているのと同然だ。、
私は野党共闘を支持しているが、尾﨑高知県知事の一部でも良いところは継承するなどという政策は野党共闘にはならない。高知県政を分析すれば、尾﨑県政の反人民的性格は明らかである。

米軍機オスプレイの飛行も承認し、原発も承認し、メガソーラーも承認し、県勢の浮揚は何もできず、県議会政務活動費もやりっぱなしにし、県立大学の焚書事件も責任を取らず、高知市をはじめ県下市町村の津波避難の体制はわずかしか進まない、民家の耐震補強にも無関心、異常降雨による河川の氾濫への手当も満足にできない、人口はがたヘリだ。第1次産業で生きていかねばならないのにそれが1000億円の入超の体たらくだ。

地産地消ができないのに何の地産外商ぞや。高知県に住んでいるものは、他府県の人より短命で不健康だ。・・・
何か尾﨑がいいことを残したというものがあるのか。
良いところといえば、橋本大二郎のモードアバンセのような自ら大きな不祥事は起こさなかったぐらいか。
しかしそんなことは当たり前のことだ。

選挙に出る候補者は日ごろからもっと勉強して県政の問題点を県民に剔抉して見せなければならない。
候補者が知らなければ後援団体が教えねばならない。
尾﨑程度の者にちょろまかされてきた高知県の
野党はもし仮に選挙で勝利しても、抜本的な県政の改革、県勢挽回の政策を打てず、かつての民主党のように野垂れ死にし、二度と野党に県政のタクトが戻らないということになりかねないだろう。

革命党の選挙戦の意義は、権力や議席を得るのが最終目的ではなく、敵権力の利権行政を暴き、人民に的確な情報を与え、奮起させようとする事であって、選挙戦を通じて新しい視野が開けるものでなければならない。

負けても異議があるのである。

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2019年11月 4日 (月)

県立図書館焚書事件控訴理由書

県立大学の永国寺キャンパスの旧図書館の蔵書数万冊が焚書に付された事件の
第1審高知地裁の判決は、お粗末な判決文によって原告住民側の敗訴となった。
その判決文がいかにお粗末であるかはわたしの控訴理由書を読んでもらったらわかる。

県立大学の日常業務、図書館の管理、図書の処分に至るまで県知事の監督と指導の下にあった。以前の県直轄運営と同様の知事の責任が地方独立行政法人法に明記されている。
高知新聞は本件について相当な紙面を割いて報道してきたが、ひとつも県の責任を追及しなかった。

不要となった財産は、県知事の許可がなければ、処分できないというのが法の趣旨だ。
この法律について報道機関として新聞として知らなかったわけではないだろう。

最近知事の辞職・代議士転身を機に知事の業績のべた褒め連載をしている関係で、焚書事件の知事の責任をかけないのであろうか。これだけの不祥事を大学関係者にだけに転嫁し、
知事も大学も何の処分も、賠償もしない無責任政治をゆるすということか。

令和元年(行コ)第25号 損害賠償控訴事件
 控訴人 澤山保太郎
 被控訴人 高知県知事尾﨑正直

高松高等裁判所殿
                  令和元年10月31日     
                  控訴人 澤山保太郎
控訴理由書
【控訴理由の要旨】

本件は、平成26年~29年にかけて大学法人が、新図書館建設を機に高知県立大学の永国寺旧図書館に所蔵していた図書のうち2万5432冊を学内手続きだけで除却処分(焼却等)を許した事件である。

一、 本件損害賠償請求は正当である。

数万冊の蔵書を除却した行為は、地方独立行政法人法第6条4項に基づく同法第42条2の1項(不要財産の納付)に違背したことによる損害の賠償、または、本件譲与契約書の第15条の契約解除に基づく第16条(原状回復)の(2)または(3)の規定によっても、損害(契約解除時の時価)の賠償に係る義務を発生させた。

二、 本件違約金支払い請求は本件譲与契約書に規定されていて、不当利得の法理から考えて、地方自治法第242条2の4号の、不当利得返還請求であり正当である。
また、監査請求段階で監査委員が契約書を審査し検討していたと考えられるから監査を経ていると考えられる。たとえ監査請求書に記載されていなくても訴訟段階で新たな措置請求としても適法であるとの判例がある。
また、高額の違約金は、本件除却された数万冊の蔵書を新規に整えようとすれば億単位の資金を用意しなければならないことを考慮すれば不合理とまでは言えない。そもそもこの定めを契約書に主導的に導入したのは、被控訴人であり、その当事者が今なおこれを維持し続けながら、自己の決定したその契約条項を非難するのは筋が通らない。

三、 損害賠償請求権と違約金支払い請求権は性質は違うが同じ一つの事件に基づくもので、これを一つの訴訟に合併して民衆訴訟たる住民訴訟でその行使を求めるのは法律(行政事件訴訟法)上、正当である。
原判決も何のさわりもなく「本案」について検討し判断している。

【控訴理由各論】

【一】 本件損害賠償請求について

一、地方独立行政法人法42条の2第1項の規定
原判決は、本件図書の焼却による損害につき2972万2479円の損害賠償請求は、監査請求前置の要件を満たしていたとしたが、これを棄却した。
その理由は、
本件図書は、もともと高知県の所有に属していたことがあったとしても、本件譲与契約に基づき、独立した法人格を有する本件大学法人の所有に移転しているから、高知県の所有物ではなく、本件除却処分によって高知県の権利が直ちに侵害されたということはできないのであって、権利の侵害がない以上は不法行為が成立する余地はない。 (原判決15頁下段)

大学法人の本件蔵書が本件譲与契約により高知県から大学の方に所有権が移転したことは事実であるが、しかし、この譲与契約は条件付きの契約であり、指定用途以外の用途に使うなど条件に違反した場合解除されるものである。原判決はそのことを無視している。
そしてまた、地方独立行政法人法42条の2第1項の法律は、原判決が言う通り、不要となった出資財産を地方公共団体に返納し有効活用などを図るために新設されたものであるが、本件大学法人が不要になったからと言って学長などの判断で財産を勝手には除却することは許されていない。本件の場合は本件契約と前掲法律に違反した段階で、大学側の所有権は失われ高知県に移転するものである。少なくとも所有権が高知県に戻される権利が侵害されたといえる。移転の手続きをしなかったことを理由に不法行為が宥免されるものではない。原判決はまた、地方公共団体へ納付すべき不要財産であったとしても、当該地方公共団体の長の認可を受けて当該地方公共団体へ財産を引き渡すといった所定の手続きを履践しない限り、当該不要財産の所有権は移転しないと解するのが相当である。
と判旨した。知事が認可し、「所定の手続き」をしなければ所有権は移転しない、というのは所定の手続
きをしなかった怠る事実を開き直るもので、国の法律を遵守しないという意思表明である。

控訴人が問題にしているのは、これら「所定の手続き」をしなかったことの、被控訴人の責
任でありそれが問われているのである。本件怠る事実の違法性の怠りは二通りある。
第一の怠りは、本件図書の除却処分が行われる前に、大学法人の日常業務の監督機関である高知県が法令に基づいて大学法人が正規の手続きをして本件図書を返納するという手続きをさせなければならない義務があった。それを怠った。

第二の怠りは、除却(焼却)後の損害の回復措置を怠ったのである。
法令がいくら定めても、これを無視し実行を懈怠しすれば、法令が守ろうとする国民の財産がどうなってもいいのか、ということである。
独立行政法人になったとしても出資団体である被控訴人は、従来通りこの大学法人への日常業務の監督・指導、不要な財産の処分を含む事業計画策定や毎年の予算措置の決定、人事権行使など強い権限を持っている。(地方独立行政法人法第7条、11条、14条、17条、25条~30条、34条、36条、39条、46条、121条、122条・・・)
本件不要図書の処分についても新図書館建設などに関与し、数年以上にわたり被告は成り行きを注視していたはずであるから、焼却される前に大学法人とともに県議会にかけるなどを含め不要財産の返納の「所定の手続き」の履践をしなければならなかった。
原判決は、まさに被控訴人の懈怠の違法事実をもって被控訴人を宥免しようとするのであって、違法行為があってもそれを既成事実として義務を行使できない理由にするようなものである。それは、水防隊員が警報が出ているにもかかわらず水門を閉じなかったので浸水被害を被ったという場合、水門が開いていたので浸水が起こったといって自己の責任を逃れようとするのと同然である。
そして、被控訴人は事前の所定の手続きを怠り、さらに焼却処分という重大な結果についても、事後の適正な手続きを怠り、損害の回復措置を何も取らなかった。
監査請求や本件訴えの趣旨は事件当時所有権があったかどうかではなく、本件図書の所有権の回復措置を取らず、またその回復されるべき所有権を失ったことへの回復措置も取らなかった違法があるとしているのである。
無能ならともかく、無為無策で、というより無為無策を理由として本件請求を逃れさせようとするのは、あまりにも理不尽な判決である。

二、高知県知事の認可

原判決は続いて
高知県が本件図書の所有権を有していないとしても、高知県には、同法42条の2第1項に基づき、本件図書の納付を受けるべき権利があり、これが侵害された不法行為が成立するといえるか と自問する(原判決17頁上段)
この自問についても上記と同様あっさり
高知県知事の認可がなされていない本件では、納付義務に対応する履行請求権は発生していないというべきであるから、本件除却処分が高知県の権利を侵害するものとはいえない。
(原判決17頁中段)という。

しかし、独立行政法人法第6条の4項及び第42条の2第1項の趣旨では、大学法人側が、当該図書を不要と認定した段階で納付義務が生ずるのであり、同時に高知県側の納付される権利が生ずるのである。そして大学法人側は「遅滞なく」所定の手続きを経て不要財産を納付しなければならない。
知事の認可や県議会での議決は「所定の手続き」であってそれによって、納付義務や権利が左右されるものではない。本件図書は、もともと購入するのに3億円を超える費用が掛かっているものであり、これが返納されることについて異議を唱える者はいない。
法は大学法人が不要と認定した財産でもこれを勝手に廃棄などの処分をさせず購入費を負担した地方公共団体が別の方法や場所で有効活用を図ることを企図したものである。

三、法の適用があるのか

原判決は、さらに不要財産について高知県に返還する上掲法令が本件図書に適用されるのかについて判断する。前掲独立行政法人法の第6条の第4項では返納する財産は、「重要な財産であって条例で定めるもの」とされており、県の条例では、それは「帳簿価格が50万円以上のものその他知事が定める財産」であると規定されている。そこで図書は、数量的には1冊1冊計算されるものであり、1冊50万円を超えるものは本件に存在しないから、法の適用はない、と被控訴人の主張を全面的に採用する判示をした。その判断の根拠は次の通りだ。

原告の主張する蔵書は法律上の概念ではなく、その概念の広狭は主観的なものとならざるをえず、極めてあいまいなものであって、法律効果の発生の有無を規律する法律要件の判断に持ち込むのは不適切である。 (原判決17頁下段)とまでいう。

控訴人が本件図書を「蔵書」というのは、「社会通念に従った一般的な理解」に基づくものではないということになる。
「蔵書」という言葉は法律上の概念ではない、法廷では使えないということのようである。
物品の名前において「法律上の概念」に該当するものとはどんなものであろうか。
「蔵書」は相当な数の書籍が図書館などに所蔵されているものの集合名詞であり、また、1冊でも「蔵書」といえる。集合名詞でもあり個別名詞でもある例えば国民とか、果物とか、山とか川とか、図書とか、それに類する日本語の名詞は無数にある。日本語の名詞には複数形はないから集合名詞が単体を指すことを兼ねる。
どういうものが法廷で使えるのか使えないのか、裁判所は「法律要件の判断」に使ってもよいという法廷用語の一覧表を示すべきであろう。原判決の基準でいえば固有名詞以外ほとんどの名詞が使えないだろう。

本件「蔵書」は、本件にかかわって新聞でも大学でも、記事や法令などにおびただしく使われてきた。本件大学法人もその図書管理規則で「蔵書」と規定され、本件についての第三者検証委員会でもその委員会の名称にも「蔵書」が使われているし、本件にかかわる学長声明や県庁ホームページ、県議会資料でも標題に「蔵書」が使われている。

また、「蔵書」は図書館・情報学の分野では、学術用語として中核的な概念である。
普通の言葉であり学術用語でもある言葉が「法律効果の発生の有無を規律する法律要件の判断に持ち込むのは不適切」というのはどのような法令、判例に基づいているのか。
そのような言葉の分類を判決文で示したのは日本裁判史上初めてのことだろう。
確かに、被控訴人や原判決のように図書館所蔵の書籍を一冊一冊に分割しなければ相手の批判を防御できないという者には、都合の悪い「不適切な」言葉かもしれない。しかし、そのために、判決文で法律上の文書での言葉を恣意的・独断的に限局したり気に入
らぬ言葉を「不適切」だとして排除するのは国民の裁判を受ける権利を脅かす行為である。本件において数万冊の旧図書館所蔵の蔵書が焼却されたことは明らかである。
本は購入されたり寄付されたりして図書館に収容された段階で蔵書となる。これが社会通
念であり、学術的概念である。蔵書は体系的に整理され開架や書庫に保管される。
元は数億円かかった数万冊の蔵書を購入前の一冊一冊に分割して法の適用を逃れようというのは、法網を潜脱しようとする明らかな脱法行為である。

収容時は本は蔵書とされる。そして本件処分時でも蔵書としてまとめて除却された。
原審での被控訴人準備書面(1)8頁でも、「業務効率化の観点から、適切なタイミングで
ある程度まとめて除却手続きをとることは当然であり・・・」と言っていた。
図書館の相当な冊数の本を「蔵書」としてまとめて把握し処理するのは当然だ。
四、焼却以外に他の選択肢はなかったのか本件図書を蔵書として集合的に扱うことに異議が出たとしても、被控訴人は、図書の焼却処
分という野蛮な選択肢をとるとは考えられないし、してはならない。

いうまでもなく図書は大学にとってはもとより県民にとっても重要な財産である。
法の趣旨に照らすと、図書館の蔵書が重要な財産であるから、大学で整理され不要とされた
としても貧弱な図書しかない市町村立の図書館にとっては宝物である。被告は返納された
蔵書の活用法は知っているはずであった。本件大量の書籍は、たとえ原判決や被控訴人が言
う通り一冊一冊が50万円未満であったとしても、県の条例(「高知県公立大学法人に係る
評価委員会及び重要な財産に関する条例」)第9条での規定では、別途の規定も用意されて
いる。帳簿価格50万円以上の規定の後に「その他知事が定めるもの」とあり、数万冊の蔵
書は、この範疇に入るべきものであった。

高知県下には東洋町のように今でも図書館のないところさへある。公立小中学校、県立高校の図書室の貧弱な蔵書、貧弱な図書購入費の予算を被告は知る立場にある。
全国最下位の貧乏県の知事が数万冊のまだ上等の図書を焼却することに同意するはずはないのである。原判決は、
本件図書は、比喩的な意味で、高知県民の知的財産というべきものであり、これを喪失させた本件除却処分に対する厳しい批判が向けられていることは顕著な事実ではあるが、損害賠償請求権の存否という法的判断は、法人としての高知県に属する財産権が侵害されたか否かという観点からなされるべきものであって、本件除却処分の当否の判断とは区別して論ずべき問題である。 (原判決15頁中段)という。
高知県知事というのは高知県民の代表であって、その県の知的財産が理由なく喪失させられた、その管理責任が大学法人と県知事であることは明らかであり、そしてその責任遂行の根拠の法令もあり手続きも定められている。何も法的判断と県民の思いを区別したり乖離させることはない。被控訴人や原判決がそれを乖離させようと努力する気持ちはわかるが、裁判はえこひいきの利権の場ではない。

被控訴人は、県下の市町村や小中学校、高校の図書館や図書室にどれだけの蔵書があるのか
知っていたし、それらを充実させる予算措置の必要性、にもかかわらず些少な予算措置しか
できないことの悔しさも持っている人物である。知事の避けられぬ裁量権行使に原判決が
言うように一冊がそれぞれ50万円に満たぬからと言ってそれを理由に数万冊を灰にして
しまう選択肢があるであろうか。それとも、たとえ一冊一冊が50万円未満であっても県条
例の規定にある「その他知事が定める財産」としてこれを認定し、除却せず、返納させて活
用させるという方向の選択が、知事の本件についてのコメントからも、確実にあったといえ
るのではないか。

知事でなくても普通の人間であれば、県民の膨大な知的財産を焚書に付する選択はあり得ない。被控訴人が本件について正常な判断と手続きを怠ったのは、大学法人に対する自己の管理責任や財産の譲渡契約について自覚せず、県立大学が地方独立行政法人になったから無関係であるという本件には致命的な錯誤をしていたからであろう。
五、高知県知事の裁量権
原判決(19頁)はさらに本件契約第12条1項(譲与物件の譲渡禁止)の違反による契約解除について控訴人の主張を退ける。その理由は、解除権の行使は高知県の「裁量」であり、義務付けられていない、高知県が契約を解除した事実はないという。
すなわち、
本件譲与契約15条は、債務不履行解除について定めた規定であるが、同規定によれば、
同解除権の行使は高知県の裁量に委ねられているのであって、その行使を義務付けられる
との根拠はないところ、高知県が本件譲与契約を解除したとの事実は認められないもので
ある。(原判決 19頁中段)
本件譲与契約は解除条件付きの契約であることを被控訴人も原判決も取り上げていない。解除条件にあたる行為によって直ちに譲与契約は無効となり所有権は自動的に元の持ち主に返る。所有権が復帰することについて特段の手続きはいらない。
譲与物件である本件数万冊の蔵書の処分については第8条、第12条の1項が根底から踏みにじられたのであるから、解除の要件は十分であった。
本件契約第12条の1項は、同契約第8条(譲与物件の指定用途供用)を担保する条項であり、知事の許可も得ず本件図書の焼却処分を強行した行為は、第8条、第12条の1項に違反し、本件契約第15条の契約解除に該当する。解除の要件がそろった時、これを解除しないという選択肢は存在しない。知事の解除についての規定である第15条には、
…するときは、…契約を解除することができる、という表現があるが、権力機関の場合にはこれはただに何かの行為が出来るという権能を示すだけでなく、要件が満たされた場合にはその権能を行使しなければならない義務規定である。要件が満たされているのに、権限を行使しなければ、国民や自治体の財産や生命などに被害が発生し職務怠慢として処罰の対象になるものである。
そのことは地方自治法(第2条第14項)、地方財政法第3条第2項、同法第8条によって、最小の経費で最大の効果をあげること、あらゆる資料に基づいて財源をとらえること、良好な財産の管理及びその効率的な運用が義務づけられていることからも、本件契約を解除して自己の出資に係る財産を取り戻す義務があった。裁量権でその他の選択肢はあり得なかったのである。
契約違反行為が現出した段階で知事の認定があろうがなかろうが、廃棄処分を決定し指定された用途に供用しないと大学法人側が決定した段階で直ちに何らの「催告することなく」契約解除となり、譲与物件の所有権は元に戻るから、本件除却処分は、本件図書に関する所有権侵害事件となる。
被控訴人が本件契約の解除権を行使しなかったのは事実であるが、それは単に被控訴人の懈怠又は重大な過誤によるものであって、それを理由に責任を逃れることはできない。
六、除却処分と契約解除
原判決は、
本件除却処分が既になされてしまった後に解除したとしても、高知県に所有権が復帰するものとはいえないし、解除する前の本件除却処分の時点で既に高知県の所有権が侵害されたというのは論理的でない。したがって、原告の上記主張は、前提を欠くものであって、採用することができない。(原判決19頁中段)という。
しかし、本件図書については、廃棄処分の決定 ⇒ 廃棄(除却又は焼却)実行であり、廃棄すると決定した段階で本件契約の第8条(指定用途供用義務)に違反する。高知県に返納せず廃棄処分業者への引き渡し・高知市焼却場に所有権を移転する(第12条所有権移転禁止違反)前に、指定用途供用義務の第8条に違反し、それによって第15条(契約解除)に該当する。除却処分ももとより解除条件に該当するが、除却する前に供用廃止を決定したことで解除条件を成就するから、この時点で本件図書の所有権は高知県に返っている。本件大学法人は、高知県の所有権のあるものを除却・滅損したことになるのである。
原判決は、本件除却処分が既になされてしまった後に解除したとしても・・・ というが
大学法人側が除却を決定し本の選考をする期間に被控訴人には対応する時間が十分あった。被控訴人は国の法律により日常的に大学法人の業務を監督し指揮する責任を負っていた。
民法128条の規定では、解除条件の成否未定の間は、条件が成就した場合にその法律行為から生ずべき相手側の利益を害することはできない、とされている。
また、契約未解除での除却処分は、高知県の得られるべき利益(数万冊の図書の返納、所有権)を侵害することは明らかである。この場合、本件図書の所有権は、高知県に返ったものと判断される。
民法第127条の第3項によれば、当事者の意思で、解除条件が成就した場合、その効果をそれ以前に遡ぼらせることも可能である。被控訴人が、本件図書の所有(契約前の原状に戻す)を申し出て大学法人がその申し出を拒絶することは想像できない。
それは、本件契約書の両当事者は、地方独立行政法人法など関係法令を遵守するものであるから、本件のような「不要財産」となったものは、法律の通り元の出資者に納付するということをあらかじめ互いに了解していた。したがって、民法第127条第3項の条件成就の時点以前に遡って解除の効力を生じさせるという当事者の意思は明らかであり、これを否定することは許されない。仮に除却後に解除したとしても解除の効力は始原に遡及し本件図書の所有権は高知県に戻っていたというべきである。

【二】本件違約金について

一、監査請求前置について
 原判決は、本件監査請求は高知県知事が本件図書を除却処分をした本件大学法人に対して損害賠償請求権を行使することを求めるであるから、本件譲与契約上の大学法人による義務違反による違約金支払い請求権を行使することを求めるのは、控訴人の監査請求書の中に入っていず、したがって監査請求前置主義に違背する。その理由として、
損害賠償請求権と違約金支払い請求権とは、法的性質を異にするまったく別個のものである、という。すなわち、
本件監査請求は、本件除却処分に関して高知県知事が「適切な措置」を執ることを請求するものであって、高知県の財産とされるべきであった本件図書等が違法に焼却されたことにより高知県が被った損害に関して、高知県知事が本件大学法人に対する損害賠償請求権を行使していないことを財務会計行為上の行為として・・・・。
一方、違約金請求については、本件図書の所有権を廃棄物収集運搬処理業者等へ移転したという本件譲与契約上の義務違反行為に関し、高知県知事が、本件譲与契約14条項に基づく違約罰としての違約金支払い請求権を行使していないことを財務会計上の行為として主張するもの・・・・。
両者に係る請求権はその発生根拠や法的性質を異にする全く別個のものであることは明らかである。という。
しかし、両者が性質の違う別個請求権であることは、その通りであるが、一つの事件から複数の請求権が発生しているものはそれぞれ別々に訴訟にかけなければならないという理由が不明である。両者の性質が違うという事実を摘記すれば理由の説明もなく却下の理由になるのであろうか。
本件訴訟は、法的には国の法律である独立行政法人法と本件譲与契約書の二つに基づいている。監査請求の段階では、とりあえず前者の国の法律に基づいて請求がなされた。
監査委員は、理由をつけて本件監査請求を却下しそれを控訴人に通知してきた。
その通知書に記載された理由というのは、本件譲与契約書に基づき、本件図書は大学法人に所有権が移っているので、高知県とは無関係だというものであった。(甲1、2号証)

してみると監査委員は、少なくとも本件譲与契約書の内容を吟味したことは間違いない。
その契約書には、契約違反の場合、大学法人は損害賠償だけでなく違約金の支払いも、また、
契約解除の条項も入っていた。監査委員の監査は何も住民の請求したことのみを監査するというものではない。住民の監査請求の一端の事実を契機として当該事件に関するその他の違法性にも調査し監査が及ぶことは当然である。
本件についての監査は本件譲与契約書を取り上げた以上、その内容として損害賠償のみならず違約金についても監査が及んだものと考えるが、所有権が移転しているということで監査請求は却下された、というものである。

二、監査を経たか

そこで問題なのは
第一に、住民訴訟の前置である監査を経るとはどういうことか、である。
第二に、一つの違法事件で監査段階で住民が問題としなかった違法性について訴訟段階で提起することはできないのか、
第三に、一つの違法事実で根拠の異なる性質の請求はできないのか。
(1) 第一の問題について:
地方自治法第242条の監査請求の条項では、住民監査とは①住民による請求書の提出②監査委員会の受理③監査委員の監査④監査結果の通知のこの過程である。
そしてこの④の監査結果に不服の場合住民訴訟が提起される。あくまでも④の結果に対する評価によって訴訟が行われるかどうかが決まるのである。
本件監査では、④の監査結果の通知の内容を踏まえて訴訟を提起していることは明らかである。請求書段階では、本件譲与契約の違約金については言及していないが監査結果にはそのことを含む契約書を踏まえた審査・ないしは判断が明記されていた。だから違約金問題は監査を経ていたことは明らかである。
(2) 第二の問題について
高知県の許可もなしに本件図書の除却という一個の財産管理上の事件で監査の結果には内包されていたが監査請求書には明記されていなかった請求を、当初の請求と一緒に訴訟で提起するのはいけないのか。それについては最高裁判例が参考になる。すなわち、
原審控訴人準備書面(3)で引用した以下の判例であるが、原判決はこの判例を一顧だにしていない。(平成10年7月3日最高裁第二小法廷判決 平成6年(行ツ53号)
住民訴訟につき、監査請求の前置を要することを定めている地方自治法第二四二条の第一項は、住民訴訟は監査請求の対象とした同法二四二条一項所定の財務会計上の行為又は怠る事実についてこれを提起すべきものと定めているが、同項には、住民が監査請求において求めた具体的措置の相手方として右措置を同一の請求内容による住民訴訟を提起しなければならないとする規定は存在しない。また、住民は監査請求をする際、監査の対象である財務会計上の行為又は怠る事実を特定して、必要な措置を講ずべきことを請求すれば足り、措置の内容及び相手方を具体的に明示することは必須ではなく、仮に、執るべき措置内容等が具体的に明示されている場合でも、監査委員は、監査請求に理由ありと認めるときは、明示された措置内容に拘束されずに必要な措置を講ずることができると解されるから、監査請求前置の要件を判断するために監査請求書に記載された具体的な措置の内容及び相手方を吟味する必要はないといわなければならない。そうすると、住民訴訟においては、その対象とする財務会計上の行為又は怠る事実について監査請求を経ていると認められる限り、監査請求において求められた具体的措置の相手方と異なる者を相手方として右措置の内容と異なる請求をすることも、許されると解すべきである。(甲第11号証 下線控訴人)
最高裁判例に照らせば、監査請求の段階の措置の内容(損害賠償請求)と訴訟段階での異なる内容の請求(違約金請求)も許されるというのである。
(3)第三の問題:
 上掲最高裁判例からすると、根拠が異なり、性質の相違する新たな請求でも問題ないということになる。違約金の請求と損害賠償請求は性質が違っていることは当然である。
地方自治法には、一つの違法行為から性質の違う複数の措置請求を出す場合、それぞれ別個に訴訟を起こさなければならないという規定はない。例えば賠償請求と差し止め請求は別種の請求であるが、その場合でも、一個の訴訟で問題の解決を図ることができる。
普通の裁判でも一つの契約書で1個の違反行為に対し損害賠償に違約金支払いが加重されたからと言ってそれぞれの請求について別個の裁判を起こさなくてはならないのか、他の裁判は構わないが住民訴訟では、いけないというのであろうか。関連する複数の請求の合併は許されないのか。
本件住民訴訟は行政事件訴訟法では民衆訴訟に入る。同法第16条から19条は当事者訴訟についてであるが、同法43条において民衆訴訟にも準用する規定がある。
準用される同法第16条では、関連した請求には訴えの併合が認められている。
本件損害賠償請求と違約金支払い請求は、一個の契約書から出たもので一個の違法行為(除却)から義務付けられたものであり、直接連関している。
被控訴人そして原判決は、独自の独断的見解ではなく法令にのっとった主張や判断が求められる。

三、不当利得返還請求について
原判決のさらなる独自の見解は続く。原判決は
地方自治法第242条の2第1項第4号は、損害賠償又は不当利得返還の請求に限定して普通地方公共団体の執行機関又は職員に対しこれらを行うことを義務づけることを許容しているところ、本件譲与契約第14条2項において、同条1項に定める違約金は、損害賠償の予定又はその一部と解釈しない旨定められていることからしても、本件違約金支払い請求は、地方公共団体と契約を締結した相手方の当該契約上の義務違反に対する違約罰としての違約金の支払いを求めるものであって、その性質は、同号に言う損害賠償又は不当利得返還の請求とは異なるというべきである。したがって、本件違約金支払い請求は同号の要件を充足しない不適法な訴えであるといえるため、この点でも却下は逃れない。
(原判決21頁)

という。原判決は不当利得という概念をどのように理解しているのかいぶかしい。
控訴人は、本件大学法人の本件譲与契約違反による違約金を払わないのは、不当利得に該当すると考える。
学説によれば、不当利得には本件のように、本件大学法人の側が財産の増加など積極的利益はないものの、本来なら減少したはずの財産が減少しなかった場合(消極的利益)も該当するといわれる。高知県側からすれば、本来なら増加したはずの財産が増加しなかったのであるから、不当利得の要件は満たされている。このような意味での不当利得も返還請求の対象となる。本件請求は、地方自治法第242条2の4号請求に何ら違反していない。
本件違約金について付言すれば、契約書に違約金の条項を設けることはよいとして、損害賠償とは別個に巨額の支払い義務が設定されている。それは一つには、本件図書のように過去の購入時、あるいは新規購入には数億円の費用が掛かかるのに、事件時の損害賠償額は数千万円にすぎないというアンバランスを是正する意味があったと推量する。
ただ、被控訴人が、違約金の支払いが高すぎると思うなら本件契約書を是正するべきであって、今なお現在の条項のまま現行の違約金制度を維持する以上は、控訴人としてはこれに基づく請求を維持せざるを得ない。被控訴人自身が定め、これを維持し続けているものを、自らが不合理だといって非難する、その非難をまともに判決文に反映するというのは、常識では考えられない。

四、違約金についての本案についての判断
1、本件譲与契約第12条の1項(譲与物件の譲渡禁止)は第8条(指定用途供用義務)を別の観点から担保し保証するためのものと考えるが、被控訴人はこの禁止規定には「譲与物件の除却処分はふくまない」という。その理由として、耐用年数が10年未満の動産は無数に存在し得るし、その単価も50万円はおろか、
千円にも満たないものは多数あるはずであるが、そのような物件が一切処分できず、仮に、数千円の物件を誤って廃棄したとして、直ちに3億円を超える違約金を支払わされるというのは、明らかに不合理である。という。

それはその通りで、当事者が納得して決め今もそれを守っている事実ではあるが、契約書の規定機械的に解釈運用することは不合理な事態を招く恐れがあるだろう。事案に応じて公平な判断が求められる。しかし、また、数万冊の物件の処分を数千円の物件と同列に扱うのも不合理というべきではないか。原判決は、続けて言う。
本件譲与契約12条1項が定める期間や違約金の額からすれば、耐用年数も相当期間存し、かつ、ある程度の高額資産である不動産や工作機器などを対象としており、地方独立法人がこれを転売するなどして不正の収益を上げたり、同法人の財政的な基盤を著しく脆弱化させたりすることなどを禁じる趣旨の規定と理解するのが相当であり、少なくとも、同法42条の2第1項の手続きすら不要とされる除却処分に関して、法の規定以上に厳格な規律を設け、厳重な制裁を課す規定を設けたものと解することはできない。という。
   (原判決22頁中段)

「法の規定以上に」という文章を除けば、被控訴人の言う通りであろう。
本件譲与契約の12条1項は不動産に限らず「ある程度高額の資産」を対象にしていることは間違いない。元は数億円かかり本件除却処分当時でも数千万円の価値があると大学法人が算定している本件蔵書は、「高額の資産」に該当するのではないか。
法の規定以上、という法とは何かわからないが、地方独立行政法人法をいうのであれば、契約自由の法理からして違約金の金額をどのように設定するかは契約当事者が決めることであって、法はもともとあずかり知らぬことである。ただ、除却・棄損された対象物件の値打ちによって違約金に格差があるべきであろうし、法外な違約金は社会通念上認められないだろう。本件の違約金は、本件譲与契約の第14条の1項(1)の規定に基づくが、数万冊を新規に購入するとなると、3億円を超え、数千万円の損害賠償金だけでは償えないから、本件違約金の額は、さほど法外な金額とは言えない。今になっても契約者双方がこの契約条項を維持している以上、原判決が本件違約金制度をいくら非難しても始まらない。

2、「形式的な所有権の移転」

原判決は、除却処分の過程における形式的な所有権の移転を観念して除却処分を禁じることはもとより想定していないはずであるから、除却処分の手段あるいはその結果として、第三者が所有権を取得することがあったとしても、本件譲与契約12条1項に反しないのは当然である。
という。「形式的な所有権の移転」とはどういう謂いなのかわからないが、「形式的」には一応所有権の移転があったということを認めるようである。本件の経緯からすれば、形式が重要であり、それが整っていれば、実体は大学から業者に渡ったのだから所有権移転は有効と判断される。廃棄物処理業者も高知市の焼却工場も、捨てた無主物を拾ったのではなく、本件大学法人が除却処分として、処分実行の業者として選ばれ、物件を手渡されたのである。形式も実質もきちんとそろっていた。大学法人が明確に相手を定め意図的に、形式だけでなく実質の所有物件を業者に渡したのである。所有権移転というのは形式を整え手続きを踏んで実物を相手に渡したところで完了する。元の所有者は当然所有権を失う。本件の所有権移転はそれに滞りはなく完璧であった。渡された廃棄物は有用なものでも不要なものでも、渡された業者や自治体の所有物となる。特別な約束がない限り灰にするか再生紙にするか受け取った業者や自治体の規則によって処分される。地方自治体では廃棄物の所有権を明確に条例にうたっているところがあり、高知市でも集積された廃棄物が盗難にあわないようにパトロールの費用まで出して所有権を守っている。本件数万冊の蔵書は最終的には高知市(処分工場)に所有権が移転されていたのである。

貴重な蔵書を焼却処分場に持っていきこれを除却するなどというのは指定用途の供用の規則違反でも最も悪質であり、だれか学生や市民に渡すというのならともかく、数万冊を十把一からげに焼却させたというのであるから、所有権移転を通り越してそれをはるかに超える衝撃的かつ無謀な処分である。

3、解除条件

原判決は、最後に、
本件違約金支払い請求が認められるためには、本件譲与契約14条1項1号より、本件大学法人が第三者に本件図書の所有権を移転し、かつ、高知県が本件譲与契約を解除したことが必要となるところ、前記のとおり高知県が本件譲与契約を解除した事実は認められないのであるから、本件違約金支払い請求権は発生していないといわざるを得ない・・・・。
という。
そもそも本件大学法人の業務への日常的な監督と指導責任について無頓着だった被控訴人が、本件蔵書の管理についても無頓着であり、解除条件が充足しているのかどうかなど本件契約についても無関心であった。契約を解除しなければならない段階でそれをしなかった。
その怠る事実の違法性が問われているのに原判決は、怠る事実を是とし前提にして本件に判断を下すのである。解除することを待って住民訴訟をするというのであれば怠る事実の違法性は没却され百年河清だ。

ちなみに、第14条(2)、(3)には解除条件は付いていない。(3)の違約金規定では第8条の指定用途供用義務違反であるから、金額は少ないが、違反事実の発生と同時に直ちに請求は成立するということになる。14条の3つの各違約金の規定では解除条件があったりなかったりであるが、各場合の義務違反にはさほどの差異は見られず、それぞれでは、当然契約解除になるから、解除条件の記載の存否は問題にされていないと考えられる。
ちなみに契約解除は、譲与契約の全体ではなく、その違反条項の問題の物件に限られると考えられる。


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2019年11月 1日 (金)

身の丈

荻生田文化相の身の丈発言が顰蹙を買っている。
身の丈とは身分ということである。

身分(差別)をわきまえろという発言が日本の政府閣僚から出てくるとは。
かつてはそうだった。差別をわきまえろが大義名分論の中核だった。

だが、戦後部落解放運動などの発展で、差別だ という声に震え上がる時代が出てきた。
差別を受けてきた人々がほう被りをして往還の隅を歩いていた時代から堂々と出身身分を名乗り権利を主張する時代がやってきていた。やりすぎもあったが激しい糾弾闘争も歴史的には重要な役割を果たし社会の迷妄を切り開いてきた。戦前戦後の解放運動がなければ部落大衆は今のような扱いは受けられなかったであろう。

だが、近年解放運動の沈潜などで、ヘイトスピーチなどが横行し、差別だといってもその差別を開き直る連中が出てきた。ネトウヨだけでなく荻生田のような身分差別を当然視する政治家も出てくるだろう。

人ながら 如是畜生ぞ 馬牛の 河原の者の 月見てもなぞ
これは16世紀初めの「七十一番職人歌合」の中の一首である。

ある学者はこの歌は穢多・河原者の立場になり代わっての歌だ、として
(人間でありながら、このように馬牛なみの扱いを受けている者なれば、美しい月を見ても心が晴れぬ)という解釈を示した。(「部落史を読む」阿吽社発行)

私の解釈では、この歌は差別を受けた当人が詠んだ歌であろう。如是などというお経の言葉を使っているから僧体のものかもしれない。

初めの、人ながら如是(にょぜ)畜生ぞ という句には、同じ人間でありながら畜生同然の扱いぞ という激しい叫びともとれる断定的義憤がある。

後の句には、馬牛とさげずまれる河原者であっても、月を見ても人並みに美しと感ずる、
それなのになぜこのような仕打ちを受けるのだ、という胸を打つ強い抗議の声が悲しげに響いている。

現代の解放運動は、抗議の怒りの思いを持つ多くの部落民がいるのにこの学者らの解釈のようにその声を感傷的詠嘆でしか理解しない、そのような低調な運動に似ている。

部落民だけではない。多くの受験生には経済的格差が厳しい。有名高校や大学に入学する大半は裕福な家庭の子供たちだ。部落を底辺としながら、大多数の国民が身分的格差ともいうべき差別の中で苦しんでいる。

中世の賤民たちの心の怒りは数百年たってもまだ晴れない。

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2019年10月30日 (水)

室戸市羽根町のメガソーラー

広大な森林を伐採して開設する太陽光発電事業はエコ発電ではないし、
原発に代替する新エネルギーでもない。ただの公害事業だ。

大阪のサンユーという業者と県庁が一体となって進めた羽根町の里山に展開するメガソーラーは国が指定した砂防管理地であるから、その悪質性は際立っている。

参考資料を掲載する。

羽根町メガソーラー発電事業について学習会

       羽根町メガソーラ事業対策市民会議

   【市民学習会 案内】

 開催期日:  月  日   時

 開催場所:    
     
 当該砂防地域での開発事業には重大な違法がある

大雨が降るたびに赤木谷川や琵琶が谷川に濁流が流下していることは住民だけでなく、
県などの行政機関も確認している。飲料水が飲めなくなった事実も明らかである。
山地の開発事業では濁水が発生すること自体が許されていない。

大阪の業者による羽根のメガソーラー事業には、以下の通り重大な違反行為がある。
高知県庁(室戸市)はこれら違法行為にまともに対処せず、業者のなすがままに放置した。
住民はこれまで反対、抗議の声を上げてきたがすべて無視された。

特定業者の利益のため地元農業・漁業等に直接影響を与える里山の乱開発が許されるのか。
日常的な濁水だけでなく以上降雨など水害の不安は流域の住民に深刻である。
室戸市および奈半利町の住民には、議会や行政に働きかけるほか種々の法的手段を講ずる必要があると考える。


   住民をだます数々の虚偽と乱開発の実態

1,1万立米の残土(調整池掘削による切土)の虚偽処理

 業者の県への計画及び報告では
12802立米(切土) - 3352立米(盛土)=9450立米
調整池浚渫(しゅんせつ)土砂約800立米 
業者の県への届け出は地元業者の土地(山鳥地区)に搬出することになっているが
⇒ これまで一握りの土も搬入されていない。(虚偽の報告)

2、森林率(国交省の基準は事業地で森林を40パーセント以上確保)

業者の県への報告では58%を超える森林残存率だという。
業者は、砂防地域の事業地面積を所有する山地の面積全体で割り算をしている。
業者の計算:67.4755㎡ ÷ 1146560㎡ = 58.85%

しかし、国の説明では事業地に残る森林を事業地の面積で割る計算式が正規。
正規の計算式:48.97ha(事業地)- 42.24ha(抜開面積)=6.73ha(残存森林)
6.73ha÷48.97ha=13.7%(平成31年2月1日 業者の県への変更許可申請書による)
 実際はわずか13パーセントにすぎない。(虚偽の計算式)
⇒パネル設置面積を大幅に(10ha以上)縮小し原状(森林)回復の義務がある。

3、降水による流量計算(虚偽計算)

(国の基準では事業地と測候所との標高差が300m以上は2割~4割割増)
県が認めた業者の計算式では 460m-185m>300m とし、赤木谷山標高460m、雨量測量地185mとし国の基準値未満だという。

しかし、業者が使った測候所は室戸岬の山の上のもので国交省がいう近隣の測候所である吉良川中川、北川村野友測候所などの標高を使っていない。
中川77m、野友50mであり、いづれも標高差は300mを超えている。
⇒4割増しの流量では、赤木谷、加曽谷川、奈半利の琵琶が谷川等が耐えられるか重大な不安がある。各河川の流下能力を超える雨水流下量の増大が出てくる。
調整池の増設が必要であるが逆に 17基から⇒13基に減少させた。

4、表土の剥ぎ取り (県の説明は嘘)

住民への県及び業者の説明会では、 業者は、パネル設置の事業地全体について表土を0.5mはぎ取って地面を平らにしたと報告した。(平成29年11月26日羽根市民館)
これは開発工事の現場の実情写真や住民の目撃、業者の話と一致する。

業者の計画書、県の住民説明では、調整池掘削以外は一切、切土・盛り土はしていないというが、事業者の説明の実態が真相である。
 ⇒表土切土の規模は、  0.5m×40ヘクタールとすれば数十万立米に及ぶ。
     大規模な違反開発と考えられる。

5、伐根

  業者や県の許可では樹林については抜開しても伐根しないことになっている。
  しかし、現実には抜開即伐根である。
  県は、途中で伐根に変更したというが、変更の手続きをした形跡がない。

6、工程表の虚偽

国の基準では、開発工事による濁流や土砂災害を防ぐために開発行為に先んじて濁流防止対策をとること、そのため調整池や堰堤を先に建設することが定められている。
本件事業でも当初の工程表計画では、そうなっている。
しかし、実際の工程表及び業者の証言では、抜開が先行し、調整池掘削工事は、それに同時か後続している。

7、そのほか、排水施設の未設、法面の未対策、県に無届で抜開面積の拡張(追認)など違法行為の数々がある。

県は、国交省の砂防法に基づく開発基準や県の砂防指定地管理条例及び土地基本条例等に基づき、適切な措置をとるべきである。 

(付記)羽根町メガソーラー事業による室戸市の税収試算

*固定資産税年間120万円 
*償却資産税(17年間合計)約7億5千万円
羽根町民の犠牲の上の本件事業であるから固定資産税は別として償却資産税は羽根町の河川整備や山道整備事業費等に使うべきだろう。(文責 澤山保太郎)

羽根メガソーラー資料説明

これらの資料はすべて県庁に開示請求して開示してもらったものである。

資料1「県もここまで裸地となることは想定していなかった。」
    (平成30年3月30日 羽根市民館での住民説明会での県職員の発言)

資料2、3 調整池掘削時の残土の処分場として羽根町山鳥地区の業者の土地の写真及  
      び業者の残土受け入れ承諾書
    (平成28年8月株式会社サンユーが県に提出した補正申請書添付書類)

資料4 標高差のごまかし、事業地からの流量の割り増率を0とした。
    事業地は460m、近隣の測候所は吉良川77m、北川村野友50mだから基準値300m以上 の標高差があり降雨量の1.4倍の割り増しをしなければならない。
    わざわざ遠く離れた山の上の室戸岬測候所の標高を使うのはペテンである。
   (平成28年2月県に提出された業者の「排水計画概要書」)

資料5、6、7 降雨量の割り増しを行わずに流量計算の結果「調整池不要」という結論を導いた。順に、赤木谷川、加僧谷川、琵琶が谷川。
   (平成28年2月 サンユーが提出した排水計画概要書)
  
資料8 当初業者から県に提出された工程の計画書 この通りにはやっていない。
    計画では、調整池や排水施設を先に工事し、それから樹木の抜開・パネル設置など の工程であったが、実際は抜開が先行、調整池や排水施設は後回しになった。
    これは国の開発審査基準に真っ向から違反する。(資料13の工程表参照)
(平成28年権利者一覧表に添付されていた工程表 株式会社サンユー作成)
資料9 維持管理計画 計画通り実行するかどうかわからない。
     (平成28年6月サンユーが県に提出した維持管理要領書)
資料10 中山地区飲料水供給施設の経費分担 開発によって飲料水が濁って飲めなくなっ た以上施設を新設するのは当然であるが、その費用負担が原因を作った業者が3% ちょっとしか負担しないというのは、理解できない。
    自ら適切な措置を取らず業者の不法行為による被害を野放しにした付けを
    県民の金で賄うというのは、許せない。(平成29年4月7日市民への面談回答)
資料11 無許可開発・追認
    業者は、無許可で7.3563ha(約20%増)も造成していた。こんな無法な行
為を「指導」し、申請をさせ、追認するというのは業者と県との間に何か特別な事
情があると思われる。(平成30年6月県土木部長らの決裁書「回議書」)
資料12 虚偽の計画内容、残土の虚偽の処理計画、森林率の虚偽計算

①「計画内容」では、切・盛土による平地造成はせず」、「除根は行わない」としているが嘘であった。  
②「残土量」では「場外搬出:搬出場所は別添図参照のこと」というが一握りの残土も場外に出していない。
③「森林率」では、(国の基準では、砂防地域では40%以上)
 県への報告では60.87% あるというが全くの虚偽計算である。
 林野庁の係官の話では 森林率の式は 事業地の中でどれだけ森林が残っているかである。事業地面積-森林抜開面積=残存森林面積 ⇒
残存森林面積÷事業地面積 が正規の計算式である。
サンユーのごまかし計算式は、 保有する山林面積(A)-事業地面積(B)=残存森林面積  残存森林面積÷保有する山林面積 としている。
そうすると、事業とは関係のないAの面積を拡大すればするほど森林率は100%に近づいてくる。

*県に報告されている実際の数値では真実の森林率の計算式は
 約49ha(事業地面積)-約42ha(抜開面積)=7ha(残存森林面積)
    7ha÷49ha= 約14% たったこれっぽちの森林率、許されない。
     (平成30年5月 業者提出の計画説明書)
 
資料13 浚渫(しゅんせつ)計画(1,2年でしゅんせつ)

すでに調整池の浚渫工事が遂行されていなければならない。全体1回で1000立米ちかくある。浚渫した土砂は資料9では「場外の土捨場に搬出」となっているが、ここでは、「3工区」に保管するとしている。

(平成30年6月 業者の変更申請書の補正資料届)

資料14 実際の工程表

資料8の工程表計画と全く違っている。平成29年5月ごろには抜開が始まっている。調整池の工期は、31年2月の最終段階まで伸びている。
これは国の基準を根底から無視したもので、県も承知していた。
計画はサンユーが作り、工事施工の池田建設工業は実際の工程表を作った。

(平成29年11月頃 池田建設工業株式会社作成)

  資料15、16 県の許可判断根拠のウソ

①発電用パネルの設置は現在の地形に沿って行い
②土地の造成(切土や盛土)は行わない
③樹木の伐採はするが、根を残すことにより土壌を固定し続ける。
④下草の種子吹き付けによる植生で交付による表土流出を抑制する。
⑤「伐採前と同様に土壌の保水力は残」るという。
全面的な造成と表土の剥ぎ取りにより、土は濁流となって流下した。

(平成29年3月「羽根地区で計画されている太陽光発電について県の考え方」

資料17 調整池削減 
    
記録的な異常降雨が普通となっている現在、調整池を計画の4分の1も減らしていいのか。17基 ⇒ 13基

野放図な乱開発の事実を偽り標高差をごまかして流量を過小算定し・・・
調整池も大幅減少させた。(平成30年2月 業者の変更許可申請書) 
 
資料18 資料12で示した資実の森林率を計算する根拠の数値がここに示されている。抜開面積は42,34ha、行為地(事業地)は48.9714ha
      事業地での残る森林面積はわずか6.63haに過ぎない。
       真実の森林率の計算式  6.63÷48.9714=13.5%      
(平成31年2月 業者の変更許可申請書) 

資料19、20 標高差の割り増しのごまかし  資料4参照
      (業者が提出した「計画説明書」の「横断水路の流下能力計算」)

資料21 業者、平坦化、造成の事実を吐露

「パネル敷地の他に、作業道に支障となる箇所は伐根しました。」
「表面のふわふわしているものは取り除いています。50cm程度までです。」
サンユーやリョウマコンサルタントは住民に対し平然と伐根の事実、50cmの表土剥ぎ取りの事実を表明した。
      (平成29年11月26日 住民説明会 羽根市民館)


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